the world is not enough


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日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ  ..t      返信
 
  http://www.oralarthistory.org/archives/

AMeet
2006年12月に設立された非営利団体で、日本の美術関係者に聴き取り調査を行い、それを口述資料として保存・公開している。メンバーは12名で、その多くは美術史を専門とする大学教員や美術館学芸員である。2007年8月から聴き取り調査を始め、2012年10月時点で聴き取り調査の数は69名分に達している。そのうち書き起こしや確認を終えた39名のオーラル・ヒストリーをウェブサイトで公開している。

今日、世界的に見て、現代美術の研究にはアーカイヴの存在が必要不可欠となっている。美術作品の形式的な特徴に注目するモダニズムの退潮とともに、美術作品を、それが作られた経緯や背景とともに理解しようとする考え方が主流となってきたからである。現代美術の研究者は、アーカイヴで、アーティストや批評家、ギャラリスト、場合によってはその家族などを含めて、美術関係者が残した書簡やノート、メモ、スクラップブック、写真、オーラル・ヒストリーなどの一次資料を調査するのが一般的になっている。
..2013/05/08(水) 19:58  No.3371




(非)物質化とアーカイヴ:ephemeral/ephemera  ..t      返信
 
  非)物質化とアーカイヴ:ephemeral/ephemera

セプチュアル・アートの関心が、その創発期においてすでに、芸術作品のアーカイヴ的なあり方(芸術作品がアーカイヴを模倣すること)であったこと、そしていまもなおそうであること

つまり私たちは、アーカイヴが要請される条件としての「自発的で生き生きとした内的体験としての記憶[……]の根源的で構造的な欠陥」について常に意識的でいなければならないのであり、また、今日の “ephemeral” な媒材の多くが、もはや “ephemera” としては残され得ない類いのものであることについて問う必要があるのだ。ただしこの問いは、デジタル化を非物質化の真の状態としてとらえるという意味においてではなく、むしろ「デジタル化」と呼ばれているプロセスが、非物質化のプロセスとしては不完全であるという事実において必要な問いなのである。
..2013/05/08(水) 04:26  No.3370




結合術(アルス・コンビナトリア)に関する断片  ..t      返信
 
  http://gitanez.seesaa.net/article/101417754.html

>転載
バラバラの断片をどうつなぐか。
最近、「結合術(アルス・コンビナトリア)」に関心があるので、いくつかの書籍から断片を拾ってメモ。

マーシャル・マクルーハンの遺著『メディアの法則』も近々邦訳が出ますが、副題に「新しき学」をうたっていることからもわかるように、つなげよう、似ているところを見つけようとする仕事でした。「メディア」を本来の「間をつなぐもの」という意味に帰そうとしている。メディアって、もともとは人と神をつなぐ巫女のことですからね。
高山宏『表象の芸術工学』

まず、断片をつなぐ仕事がメディアの問題であるということは了解。では、そのメディアとは何なのか?

タブローの上に断片を並べて視覚的に編集する

スタフォードに教えてもらったのが17〜18世紀の「驚異博物館(ヴンダーカンマー)」がそれにあたりそうだと。

人工物か、天然物か、異教の物かキリスト教の物か、普通の物か異国の物かは問わず、ともかくそうした物どものは、見出す行為そのものがいかに偶然と雑然のわざくれであるかを即教えたわけである。精妙に三次元化されたこのさ寄物陳思のコラージュを眺めてみると、いかに我々の学習が断片を闇くもに集め、編集する骨折りによって成り立っているものかがはっきりしてくる。
バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』

スタフォードのこの断片のつなぎ合わせの話を「我々の学習」としての意識の話にもっていくあたりは、『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』の書評を書く際まで置いておくとして、これは「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で書いた「タブロー」=「テーブル」の話とは切り離せない。

ミッシェル・セールにとって『デ・アルテ・コンビナトリア』とはタブロー化一般についての研究なのである。神の理性はあらゆる図表に抜きんでた予定表であり、予定調和とはあらゆる法則の一覧表のことであり、十全な百科全書とはまたも完璧な一覧表である。図表の助けを借りてこそ、既知のものから未知の項が割り出される。
ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』

これ視覚的でないと意味ないんだろうな、と思う。
電子辞書と紙の辞書の一覧性に人が違いを感じるように。

ライプニッツの結合術

ジョン・ノイバウアーの『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』を読んでいると、ライプニッツの考えていた普遍の学としての「アルス・コンビナトリア(結合術)」ってのはすごいなと思う。これは一回ちゃんと勉強しとく必要があるなと思う。

順列組み合わせの文芸を「アルス・コンビナトリア(結合術)」という。一定の要素の中で順列組み合わせをしていけば、それが何万、何十万ともなるというアートは、オリジナルなものを無視して、どこまでもリピートできる。独創の大地に足はついていないが、一見多彩で豊かな文化、それがピクチャレスクが最後に行き着いたところである。
高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』

スタフォードも『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』のなかで、ライプニッツの結合術のなかのアナロジーの力を参照しつつ、それが目指した普遍に関しては、あっさりこんなことも書いているのでおもしろい。

少しく控え目な私的コレクションを描いた絵など見ても、アーリーモダンの博識家たちが普遍だの、包括だのということを信じていなかったことがわかる。その大なるか小なるかを問わず、いかなる貯蔵庫をもってしても、あらゆる学知をおさめることはできない。デジタルなデータベースにさえ、できない。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

まぁ、貯蔵庫ではないよな。このあたりは「ヒット商品、データベース、そして、言葉の壁」です。とうぜん、ライプニッツ自身、それは了解してたところ。
ライプニッツがおもしろいと思うのは、ここ。

普遍文字を構成する基本記号はできるかぎり自然の姿をしているべきだと要求する。その方が学ぶにたやすく、記号の組み合わせが記号の姿からすぐにも導きだせるからである。ライプニッツは不変文字を「幾何学的な図形、あるいは絵の姿をとって」生じるものであると思い浮かべている。「さながらかつてのエジプト文字、今日の漢字のように」。
ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』

ここまでくると、かのカリグラファー・空海まで話がつながりそう。

このとき空海がインテグレーションを進行させるにあたって最もこころがけたことは、「思考の内容を感情の内容とすること」(シュタイナー)であったかと思う。新密教創出の当の担い手に分離や分断がおこってはならなかった。そのうえで、至高の存在にみずからが導かれているのだという確固たる信念にしたがって歩みはじめた。右脳に直観、左脳に方法をもって・・・。
松岡正剛『空海の夢』
..2013/05/08(水) 03:42  No.3369




P+ARCHIVE第ニ回レクチャー「アーカイヴ的思考(Archival mind)について」報告  ..t      返信
 
  ”一方で、アーキヴィストが直面することになる実際のアーカイヴは、ある意味で、不揃いで膨大な廃棄物の山と言うべき存在であり、虚構性に満ちた分類の問題に常に悩まされることになる。私たちはボルヘスの「ジョン・ウィルキンズの分析言語」における、あのエキセントリックな分類を一笑に付すことはできない。なぜならボルヘスが言うように、私たちは世界について完全に知り得ない以上、どんな分類も必ず恣意的で矛盾と破綻を抱え込むものだからである。

それでもなお、アーカイヴの虚構性と恣意性を了解し引き受けた上で、アーカイヴを絶え間なく再編集/モンタージュしていくという志向、そのために一定のインタレストとモチベーションを維持することのできる精神を、「アーカイヴ的思考」と呼びうるのではないだろうか。”

http://bit.ly/11fOBQJ
..2013/05/08(水) 02:50  No.3368




言葉と物―人文科学の考古学  ..t      返信
 
  言葉と物―人文科学の考古学 By 朱雀正道

時代にはその時代ならではの知の枠組があって、
時代が変われば、知の枠組も変わります。
ルネサンス期の考え方は謎めいていますね、
大宇宙と小宇宙(人間の体)は相同的である、というように。
そこにいったどんな根拠があるでしょう?
太陽やら月やら火星やらがある宇宙と、
人間の頭や手足や胃腸のあいだに、
いったいどんな相同性がありますか?
小一時間、問いつめたくなります。
しかし、過去の時代の人たちにはかれらなりの考え方があるわけで、
問い詰めたって仕方がありません。

これが1600年代後半、ニュートンの時代になると、
リンゴは木から落ちるのに、なぜ月は落ちないのか、
なんて考察がはじまりますから、
当時はまだ教会権力が健在だったとはいえ、
だいぶ世界観が変わってきます。
こういうふうにその後も、知の枠組は時代ごとに変化し、それぞれ特徴がある、
著者はそれを、進歩・発展の相に見るのではなく、
それぞれ時代ごとの知の枠組があるんだ、という見方で扱います。
そこまではわかります。

わからないのはそこから先で、
どうやらフーコーはこんなふうに考えているようです、
いつの時代も人の思考は、時代の知の枠組にボンデージされているのだ、
すなわち、その時代の知の枠組こそが、人間をして、思考させしめているのだ。
なんていう逆説、なんていうニヒリズムでしょう、著者だって人間でしょうに。
いずれにせよ、著者は、知の枠組の変遷史を、
言葉と物の関係(=言語観)の変化に着目して、描いてゆきます。
(ここでもまたソシュール〜ヤコブソンの言語学が、
レヴィ・ストロースとも、ロラン・バルトとも異なった方法で、独自に活用されています。)

では、まず著者がルネサンス期の知の枠組をどう見ているか?
イントロは、ベラスケス(1599-1660)の
『侍女たち(ラス・メニーナス)』の分析です。
あの絵は、変な絵ですね、
だって、あの絵を見ていると、
自分はいったい誰の視点でこの絵を見ているんだろうか、とおもう。
はたと気づく、もしかして「わたし」は、
王様の視点からこの絵を見ているのではないか。
そして気づく、そうか、王様は絵画の外にいるのか。
そしてフーコーは、そこに王様の時代の不可視の権力を見ます。
王が言えば黒も白、白も黒、真理は相対的な時代です。
もっともフーコにあっては、どの時代にあっても真理は相対的と考えるでしょうが。

いいえ、それどころかかれらは、
ほんらいまったく別のもののあいだに、類似を見出し、つなげてしまう。
例の、大宇宙と小宇宙(人間)の照応がその代表ですね。
これが1500年代の知の枠組である、と著者は考えます。
この時代の知はすべて、なにかをなにかに関係づけて、注釈すること。
知性そのものが(科学精神よりもむしろ)散文精神に傾いていた時代でした。
そして著者はドン・キホーテに、類似を求め現実に裏切られる、その主題の変奏群を見ます、
ドン・キホーテは1600年代初頭に書かれ、
すなわち、古典時代から見ると、ルネサンス精神そのものが喜劇的に見える、というわけです。

さて、1600年代〜1800年代の古典時代は、
知性は、記号を用いて表象することを中心に展開する。
ライプニッツは、代数を発展させた、
記号をいっぱい発明して、記号を使うことによって。
百科全書は、物に名前をつけ、言葉の体系として、
もうひとつの世界を作り上げた、
差異、概念化、関係、分類、階層化とともに。
『百科全書』と博物学は、同じ時代精神によって生まれた。
しかし物と記号の対応で世界をとらえているようでは、
それはけっして近代的思考とは呼べない。

では近代的思考はいつはじまっただろう、
まず貨幣を見てみよう。
かつて貨幣は、金貨、銀貨、銅貨、
いずれもその貨幣そのものに価値を含めていた。
しかし、ジョン・ローが1715年頃、戦争でカネを使いまくったフランス政府の財政再建のために、
紙幣の導入した、一枚の紙きれが価値があるから価値があるんだ、という、
契約、とりきめ、ルールに依拠するものになった。
このとき通貨は、物質との関係を絶ち、交換価値にもとづくものになった。
物の価値もまた、物に内在するものとして見るのではなく、
売れ(=交換され)た後に、事後的に見出されるものとして考える見方が生まれた。
もはや商品も、労働も、すべて交換体系のなかに位置づけられる。
(ローの財政再建案は失敗、1720年フランスは財政破綻し、システムだけが残った。)

それはまるで言語観の変化のようだ、
言語を、言葉と物の関係でとらえるのではなく、
むしろ、語(シニフィアン)と語釈(シニフィエ)の関係でとらえる。
こうして言語学は交換の体系の象徴になり、さらには近代的思考のエッセンスになる。
人文科学はこうして発展していったわけだけれど、
それにしてもなんてシニカルな文化史だろう、
なぜって、英国の経験主義から、フランスの啓蒙主義、ドイツ観念論に至る系譜が、
まったく思想的に評価されることなく、たんに言語論的転換のプロセスとして扱われる。
ここに本書の、黒々とした野望とその達成がありそうです。

しかも著者は、これをさらに進めて、
科学の発展が、人間中心の思考 ヒューマニズム 人文科学の時代を終わらせる、と考え、
フーコーは、現代の知を、<人間の死> ととらえる。
<人間>という概念そのものが、時代遅れと言う。
かれは自分の知の方法を考古学のメタファーで語りましたが、
本書に見られるとおり、あらゆる社会科学に対してメタ性をもたせたもの、
と同時に、宇宙物理学と分子生物学の両側から人間中心の思考を解体させてゆく、
そんな現代の知のイメージがあるのでしょうが、
この結論の導き方には、論理の飛躍、次元の取り違え、
あるいはジャーナリズムへのもたれかかりを感じます。
原著出版1966年の作品。

1984年、フーコーはエイズで死んだ、
フーコーが予言した人間中心の思考の死に先立って。
..2013/05/08(水) 01:31  No.3360
Re:言葉と物―人文科学の考古学  ..t     
 
  参考
..2013/05/08(水) 01:47  No.3362
Re:言葉と物―人文科学の考古学  ..t     
 
  知の枠組みが普遍でないとしたら、どれくらいの時間的射程を見越して分類するのか。分類による構造化から恣意性を排除することはできないということか。
..2013/05/08(水) 01:57  No.3364
2010/06/11 ミシェル・フーコー「言葉と物」の長い旅路  ..t     
 
  http://d.hatena.ne.jp/yagian/20100611




この本の目的は、知、観念、学問、認識、合理性を構成する基礎となる秩序、歴史的な「ア・プリオリ」、すなわち、「エピステーメー」の変遷を「考古学」的に研究することである。西欧の文化の「エピステーメー」には二つの大きな断層がある。一つは、古典主義時代の端緒となる17世紀中頃と、もう一つは近代の発端となる19世紀初頭である。「人間」という観念、「人間」に関わる諸科学は、近代の「エピステーメー」とともに現れた。
第一部

第一章 侍女たち

ベラスケスの絵画「侍女たち」のなかには、国王夫妻をモデルとして描いている画家自身の姿が描かれている。しかし、国王夫妻の姿は直接描かれず、絵の鑑賞者の位置に置かれる構図となっており、絵の中の鏡のなかにその姿が描かれている。この絵は、古典主義時代において、表象が純粋な表象関係として自立したことを示している。参考:http://tinyurl.com/2farojn

第二章 世界という散文

16世紀のエピステーメーにおいては、類似が知を構築する役割を演じていた。世界は類似の関係を示す記号に覆われ、認識することとはその記号を解釈することである。認識すること、知ることとは、言語に別の言語を関係づける注釈することである。

第三章 表象すること

17世紀初頭、古典主義時代に入ると、類似関係が知の基本的な形式ではなくなる。比較によって物の同一性と相違性を明らかにし、記号の体系によって秩序づけることが知の形式となる。このエピステーメーによって、一般文法、博物学、経済学が現れる。

第四章 語ること

本章は、古典主義時代の言語に関する理論「一般文法」の特性について説明している。16世紀においては言葉に隠された意味を求める「注釈」が行われていたが、古典主義時代になると言語、表象が何を指示しているかを問う「批評」に代わる。言語は線状であり、思考を一挙に表現することはできず、継起的秩序にして表象される。古典主義時代にあらわれた「一般文法」においては、言説がどのような継起的秩序から構成されているかを問題とする。このことから「一般文法」では、次の四つの問題について扱う。語と語を結びつける方法の分析(命題の理論)、その基礎となるそれぞれの語が表象する方法の分析(分節化の理論)、語と表象されるものの関係の分析(起源と語根の理論)、語の変異、意味拡張、再組織の分析(転移の理論)である。古典主義時代の言説の役割は、「物に名を付与し、この名においてものの存在を名ざす」ことである。古典主義時代の言語とは、物に名を与える、すなわち、物を分節して語の体系「表(タブロー)」のなかに位置づけるものである。

第五章 分類すること

博物学はデカルト的機械論の没落とともに現れたと言われてきたが、実際にはデカルト哲学と同時期に同じエピステーメーが博物学を可能とした。博物学は、自然の諸存在を可視的な特徴によって分類し、体系化する。博物学は、表象を分析し、それらの共通要素を見定め、記号を設定し、名付けるという言語と同じ操作を行っている。その意味で、博物学は言語と言える。
第六章 交換すること

古典主義時代の「富の分析」は、近代の「経済学」とは断絶したものである。この時代にのエピステーメーにおいては、「生産」が存在していなかった。ルネサンス時代においては、貨幣の持つ価値は、それに含まれている希少な金属の価値に求められていた。それは、その時代において、語と物の関係が類似に基づいていると考えられていたことと平行する。古典主義時代に入ると、貨幣はその金属自体の価値ではなく、交換体系のなかで位置づけられる物の価値を表象するものと考えられるようになった。これは、博物学が自然のさまざまな物を体系のなかに位置づけ、命名することと平行している。このように、古典主義時代には「富の分析」が「一般文法」「博物学」と同じ知の配置にしたがっている
第二部

第七章 表象の限界

古典主義時代のエピステーメーは18世紀末に断絶する。知は、同一性と相違性によって体系化された「表(タブロー)」によって秩序づけられるのではなく、要素間の相互関係によって全体として一つの機能を持つ体系にとって代わられる。この断絶によって「一般文法」は「文献学」に、「博物学」は「生物学」に、「富の分析」は「経済学」になる。物の価値は交換によって位置づけられ、貨幣によって表象されるだけではなく、価値の背後に表象に還元することができない「労働」という要素を想定する。自然の諸物は可視的な特徴によって構成される体系に位置づけられ、命名されるのではなく、内部にある本質的な機能を担う「組織」に基づいて位置づけられる。言語は、表象されるものと語との関係ではなく、語と語の関係、屈折体系に着目する。
第八章 労働、生命、言語
..2013/05/08(水) 02:09  No.3366
Re:2010/06/11 ミシェル・フーコー「言葉と物」の長い旅路_つづき  ..t     
 
  18世紀末になると、「経済学」「生物学」「文献学」の領域で、それぞれ「労働」「生命」「言語」という自律的な組織体が登場し、それまでの「表(タブロー)」による共時的な体系化から、起源や変遷を探求とする「歴史」が検討の場となった。その変化は、経済学はリカード、生物学はキュヴィエ、文献学はボップによって窺うことができる。

第九章 人間とその分身

18世紀末になって認識される客体であり、かつ、認識する主体である「人間」が登場した。この近代の「人間」は、有機体として機能する肉体として認識される客体であり、歴史的に形成された社会的、経済的条件に規制された認識する主体でもある。
第十章 人文諸科学

18世紀末になり、近代のエピステーメーが成立することによって、「人間」という概念が生まれ、集団としての人類がはじめて科学の対象となり、心理学、社会学などの人文諸科学が成立した。人文諸科学のなかで、精神分析と文化人類学は、「人間」を規定している「人間」の外部にあるものを探求することで、他の人文諸科学の基礎となりうる。「人間」は近代とともに生まれたものだが、現代において、その終焉は間近いものである。
ツィッターでつぶやいていると、ひとつひとつのツィートは短いけれど、こうやってまとめてみるとけっこうな量の文章になっている。気がついた時につぶやいて、すこしずつ書いて行くのもなかなかいい方法だ。

さて、改めて自分が書いた要約を読み直してみても、全体としてフーコーが言いたいことがわかりにくいと思う。自分が理解した「言葉と物」のポイントを、再度まとめてみようと思う。

「言葉と物」は、知の枠組み(エピステーメー)の変遷、ルネサンスとバロック(古典主義時代)、バロックと近代の断層について語っている。

ルネサンスでは、知は類似というものを基本としていた。なにかを理解するということは、その物に類似したものを対比させることである。例えば、植物を理解することは、植物を人間と対比させ、枝は手、根は足、葉脈は血管、というように類似関係に着目する。

バロックにおける理解とは、全体の体系(フーコーは表(タブロー)と呼んでいる)を組み立てて、個別の物をそこに位置づけることである。例えば、植物を理解することとは、植物をいくつかの特徴によって分類する種の体系を作り、その植物がどの種に属するか特定することである。

近代においては、物を有機体として理解するようになるらしい。例えば、植物を理解することとは、その種を特定することではなく、個々の植物がどのように有機体として生きているのか、そのメカニズムを把握することである。

バロックを代表する学問は、物を分類し、種を同定する博物学であり。生命を持っている存在としての「生物」や「人間」という概念は近代に生じた。生物学や人間に関わる諸学問、心理学や人類学が、近代を代表する学問である。

そして、現代、近代のエピステーメー、「人間」という概念が終焉を迎えようとしている。

「言葉と物」を読んでいて疑問に思ったことがある。フーコーが分析しているエピステーメーは実際に存在するのだろうか、それとも、フーコーの考古学的視線によって立ち現れてくる仮説的な存在なのだろうか。もし、存在するものとしたら、エピステーメーが人々の間でどのように共有されるのか、また、エピステーメーはどうして変化するのだろうか。

マルクスは、生産力が向上すると生産関係(下部構造)と矛盾をきたして、下部構造が変化する。社会や文化などの上部構造は下部構造に規定されており、上部構造の変化は下部構造の変化に基づいていると、社会や文化の変動のメカニズムを説明している。しかし、「言葉と物」の中では、エピステーメーとは何か、また、エピステーメーの変動の理由、動力については、フーコーは説明してくれていない。フーコーは、エピステーメーは、すべての認識に先立つ「ア・プリオリ」だという。エピステーメーが「ア・プリオリ」だとすると、それが変動する理由を説明することが難しくなるのではないか。

この点が、フーコーの理論の弱点ではないかと思う。
..2013/05/08(水) 02:09  No.3367




アーカイブ_2  ..t      返信
 
  http://www.ameet.jp/digital-archives/

「日本の美術関係者に聴き取り調査を行い、それを口述資料として保存・公開している非営利団体、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ。本団体の代表である加治屋健司氏に活動の意義や、美術アーカイヴの現状について寄稿していただいた。」

無形のもののアーカイブ、空間化、について
..2013/05/08(水) 01:54  No.3363
Re:アーカイブ_2  ..t     
 
  リサーチとアーカイブについて
..2013/05/08(水) 01:57  No.3365




Max Ernst master's bed room  ..t      返信
 
  事物の基盤となる空間、造物主の部屋

frame of reference、分類の枠組み、状況枠の設定=アーキビスト
..2013/05/08(水) 01:46  No.3361




アーカイブ  ..t      返信
 
  アーキビスト

アーキビスト(英:Archivist)とは、永久保存価値のある情報を査定、収集、整理、保存、管理し、閲覧できるよう整える専門職を指す。アーキビストの扱う情報は、写真、ビデオ、録音、手紙、書類、電磁的記録など様々な形式を取る。アリゾナ州立図書館デジタル行政資料部長のリチャード・ピアスモーゼスの言葉を借りるなら、アーキビストとは「確実な過去の記憶として永続的な価値を持つ記録」を保存し、「その記録の山の中から、その人が必要としている情報をみつけ、その情報を理解する手助け」をする者である。日本では日本語の訳語が定着していないことからも察せられるように、認知度が低い専門職であるが、例えば日本の図書館において書籍、雑誌のみならず、歴史資料の古文書、古写真、行政資料などの非定型の記録類も、司書が(必ずしもこれらの扱いの専門教育を受けてはいないにもかかわらず)保存管理を担うことが多い。あるいは図書館ではなく博物館において学芸員が非記録性の資料類と同様に管理を行うことも常態である。しかし、すべての欧米諸国や少なからぬ非欧米諸国では、これらは司書(ライブラリアン)や、日本の学芸員に相当するとされるキュレーターの担当分野ではなく、アーキビストの担当分野とされる。

日本では、永久保存されるべき記録と言えば、歴史的価値の高い資料を連想しがちである。アーカイブ学は歴史学の補助的学問だと思い込み、アーキビストを歴史資料館や博物館の学芸員のように考えるきらいがある。しかし保存すべき資料は国宝級の古文書や史料だけを指すのではない。官公署が作成する公文書、いわゆる「お役所の書類」も確実な歴史の記録であり、行政の記録である。公文書の永久保存・一般公開は、行政の透明化や不祥事の歯止めに繋がり、非常に重要な意味を持つ。また、法律や政策の立案プロセスが保存されていることは、後世の政策転換や法文の修正が必要になったときに、重要な指針となる。日本人の間で公文書保存の意識が希薄であるのは、ひとつは情報公開、国民の知る権利、市民オンブズマンといった民主主義的概念が近年まで社会に浸透していなかったためであるし、非民主的な運営をされている国家でも公文書保存制度が充実していることが少なくないことを考えると、近現代の日本社会に図書館や博物館も含めて実物資料を保存する社会システムが根付かなかった原因をより深く分析する必要性もある。官僚機構が縦割りの小さなセクトに細分化されて、蓄積された資料に基づく情報を指針とした戦略的な行政が行いがたいという現状も、公文書の保存の必要性を行政が実感していないひとつの要因である。1987年の公文書館法を経て、1999年にようやく情報公開法が施行されたが、こうした法律の整備は従来未整理のまま放置されていた公文書から保存公開されるものを選抜するプロセスで、重要な公文書の意図的な廃棄を誘発していることも指摘されている。こういった行政の遅れが、公文書館やアーキビストの認知不足に繋がっていると言えよう。
アーキビスト養成教育や認定資格を設立し、アーキビスト間の交流や研究の共有を目的として2004年4月に日本アーカイブズ学会が設立された。2008年4月、学習院大学大学院人文社会研究科にアーカイブズ学専攻課程が設置された。

国立公文書館の公式サイト[3]に紹介されているアーキビストの仕事手順は、規模の差こそあれ他の公文書館とも共通するものである。
最高責任者の命令で関係機関から資料が搬入される。
以下のいずれかの方法で殺菌・殺虫を行う。従来は殺虫ガスとして主に臭化メチルが用いられてきたが、1987年に採択されたモントリオール議定書においてオゾン層の保護のため臭化メチルの全廃が決まった。日本でも法律で2005年の全廃(検閲など不可欠な場合を除く)以来、酸化エチレン、フッ化スルフリル、ヨウ化メチルなどの代替品や薬剤に頼らない殺虫・防虫法の研究が緊急課題となっている。[4][5][6]
減圧燻蒸法: 資料を150cm四方程度の密封燻蒸装置に入れて殺虫ガスを3〜4時間充満させる。
常圧燻蒸法: 資料を大型の燻蒸庫や燻蒸室に入れて殺虫ガスを4〜16時間充満させる。
被覆燻蒸法: 書架ごとにビニールで覆い、1 - 3日間その中に殺虫ガスを充満させる。
密閉燻蒸法: 資料のある部屋を密封し、2 - 3日間殺虫ガスを充満させる。
簡易駆除法: 資料を密封容器に入れて2日間高濃度の二酸化炭素や窒素を注入する。
受領資料を確認して、整理する。
資料の目録を作成する。
分類ごとに書庫に並べる。
一般閲覧用にマイクロフィルム撮影、デジタル・スキャンなどを行う。
痛んだ資料は修復する。破損した部分を中性紙テープで補強し、酸化が激しい資料は脱酸して中性紙にすることもある。
アーキビストの職場は、空調で資料保存に最適な温度(摂氏22度)と湿度 (55%)に保たれており快適であるが、燻蒸に用いた化学物質の残留や古文書に付着したカビや細かい塵による健康被害がないよう防毒や防塵に留意すべきである。
..2013/05/07(火) 20:51  No.3359




Atlas of the Conflict: Israel-Palestine  ..t      返信
 
  Atlas of the Conflict: Israel-Palestine

闘争の可視化
..2013/05/06(月) 21:56  No.3358




マテリアライズ展  ..t      返信
 
  >http://materializing.org/

>スケッチ。

>コンピュテーショナル・デザインの事例を集めた展覧会の会場デザイン監修。

>高精度に設計が可能なツールをつかったプロダクツも、現実世界に投下される際には、「定着させるためのデザイン」がもう一枚必要になる。
特に今回は、作家の意図、作品、プレゼンテーションに使われる各種映像機器、配線、モデルの肌理、固定・展示方法、などがすべてバラバラなので、整理の方法がそのまま構成に結びつくような会場構成とする(予定)。
..2013/05/03(金) 03:42  No.3357





  




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