★ 家族の手記 ★ (事例)

ある日突然最愛の家族が寝たきりになってしまった。そんな家族の手記です。
全ての方が匿名になっております。
ご質問、ご意見等がありましたら相談担当までご連絡ください。 

【手記を随時募集しています】


 

2012. 3. 02 ご飯を食べる幸せ 〜胃ろうを外しました〜
2011. 2. 23 柔道部事故で寝たきり7年 家族、将来に不安
2009. 4. 27 バリアをこえて さらに輝け 命の炎(ほむら)!!
2008. 10. 26 14  致死性不整脈  愛する大切な息子
2008. 5. 18 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その1)                
2008. 5. 17 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その2)                   
2008. 5. 16 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その3)                 
 

 2012. 3. 2
 ご飯を食べる幸せ 〜胃ろうを外しました〜
 ご飯を食べる幸せ 〜胃ろうを外しました〜  
 
 夫は2010年2月14日に脳卒中の脳出血で救急搬送されました。 
車を運転して自宅へ帰る途中、異常を感じて自分で(?)救急車を呼んで、車の外に嘔吐し、救急車が到着時には意識不明だったそうです。 
私に連絡がきたのは夜の9時ごろで、病院へ向かう途中にドクターから連絡がはいり、私の到着まで待てないので、検査を始めたい。検査でも命に関わる場合があること、万一自発呼吸が出来なくなった場合はどうしますか?などを聞かれたようですが、私はよくわからないまま「若いので何でもして下さい」と答えたのを覚えています。 
 
脳出血の手術は無事終わり、意識はありませんでしたが、ひとまず安心しました。ところが翌日午前3時、反対側を出血して、意識障害、四肢麻痺の生活がはじまりました。発病から現在までの介護生活の中で、やはり一番大きかったのはご飯を口から食べられるようになったことだと思います。最初は鼻からの経管栄養、その後リハビリ病院に転院してからは、経口摂取のためにSTさんが練習してくださいました。最初に経口摂取ができるかどうかの判定をしたのが7月です。 
 
(その日のブログでは・・・) 
いつもの言語療法士さん、その大先生、主治医、ナースそしてレントゲン担当者と私。物々しい状態で検査が始まりました。 
何度か違う種類のものを飲み込むのですが、だんだん飲み込みが悪くなって、口も固くなってしまいました。 
判定は灰色。 
いつもの実力が出せていないとのSTさんの訴えもあって、1ヶ月後にもう一度判断することになりました。 
よかった〜〜〜 
飲み込み残したものが、気管に入っていくところで、ドクターは飲み込むのは難しいと判断しかけていました。 
もう一度練習を重ねて、リラックスできる工夫もして、次はクリアできるように、頑張りましょう。 
・・・・・ 
 
 そうして1カ月後に再検査をしましたが、これも前回より調子が悪いようでした。そこでドクターは「在宅介護をするなら、胃ろうを作った方がよいけれど、ご主人はシャント術をしているから、簡単にはできません。この病院では無理なので、急性期の病院の主治医の先生と相談して下さい」と言われました。 
 
最初に手術をして頂いた先生に相談すると、「手術の上手な先生に執刀してもらいますが、まれに腹膜炎を起こすことがあります。普通の人は腹膜炎で済みますが、ご主人の場合は菌が直接脳にいってしまいますから、状態が今よりひどくなることがあります。それでも胃ろうをしますか?」ものすごく深刻におっしゃるので、さすがに私も迷いました。 
 
しかし在宅介護のためには胃ろう・・・という考えから抜け切れず、手術に踏み切ったのでした。脳外科の病棟に経過観察のため3週間ほど入院してから、リハビリ病院へ戻り、その後在宅介護が始まりました。 
 
退院して1カ月ほどたったある日、夫と二人でテレビを見ていると、家族会の桑山さんの息子さんが出ておられました。そのなかに食事のシーンがあって、「ああ、どうやってこんな風に食べられるようになるのだろう」その過程が聞きたくて、夢中で放送局にメールを出したのです。 
そこから家族会との出会いがあり、大阪大学の舘村先生との出会いがあり、おかげさまで食事ができるようになりました。 
 
(最初の受診日2010年12月27日のブログから)・・・ 
 大坂大学歯学部付属病院へ行ってきました。 
遷延性意識障害者家族の会で教えていただいたのです。 
 舘村先生はとても熱心に話を聞いてくださり、納得できるように説明しながら診断してくださいました。これまではレントゲンで造影しながら、飲み込みの状態を見て判断していたのですが、舘村先生はレントゲンでの診断ではないのです。 
「歯磨きは1日に何回しますか?」・・・・ええっ?何回もするの????と思いながら・・・・ 
「一日1回ですが、時にはできないことも」 
「熱が38℃くらい出たことはないですか?」 
「それはありません。」というと「口の中が汚い状態が続いて飲み込みできないと菌が繁殖して、熱がでるんです。熱がでないということは、ちゃんと唾を飲み込んでいると思われます」とのこと。 
恥ずかしいですが、「あんまり衛生状態が良くないのに、元気でいてくれてありがとう」と、思いました。 
「口からは何も食べていない?」 
「う〜んと、ちょっと食べさせています」 
「ジェル状のβグルカンだけは飲み込めるんです」というと、とても興味を示されて・・・・このトロミは何でつけているのかなあ・・・・とおっしゃいました。先生は「これは凝集性の粘性です。これだと飲み込みやすいのです。口にへばりつくような粘性は飲み込みにくいのだけれど」 
そうして面白いことをおっしゃいました。 
 
「嚥下ができないと診断された方は、ドクターの指示どおり真面目に何も食べさせない人と不良でなにか美味しいものを口に入れたりする人がいるのですが、真面目な人ほど機能を低下させているんですよ」とのこと。 
ははは。不良でよかった。 
 それから毎日の口のまわりのストレッチと歯磨きの方法を教えていただいて、まずは口を大きく開けられるように練習することになりました。 
食べられるようになります!という力強い意見とアドバイスが嬉しいです。 
・・・・・・・・・ 
 このころ、夫があくびをして、顎がはずれることが、よくありました。それでその手術も決まっていたのですが、舘村先生は「それはお勧めできません」とおっしゃって、あわててキャンセルしたのでした。ちなみにその後一度も顎ははずれていません。 
 
「リハビリ病院でVF検査を2回もしていただいたのですが、どちらも不合格だったので、今日もレントゲンをとられたら、無理かなあと思っていたんです」と言ったら、「ああ、あれではなかなか解らないんです」と先生はおっしゃっていました。 
 
 また舘村先生にこんなことも伺いました。 
マウスの実験で、水、砂糖水、だしの3種類を用意して、レバーを押さないと飲めないようにしておきます。 
 だんだんハードルをあげていって、たくさんレバーをおさないと出ないようにするのですが、水は15回くらい押して出なければ、あきらめるのに、砂糖水と出汁は150回も押すのだそうです。 
マウスの賢いことにもビックリですが、味覚は大事ですね。 
 
 胃ろうからの経管栄養はそのままで、私たちのご飯でおみそ汁の具などで食べられそうなものを口に入れていきました。子供の離乳食のように食事をすすめていきました。 
 
(そのころのブログから・・・・) 
1食を口から・・・という方法もあるのでしょうけれど、時間をかけての食事は負担が大きいので、それは自分で食べられるようになってからでいいかな?と思っています。 
 今は私が食事するときに、ちょっと食べれたらいいかなな と思うのです。 
いままでお白湯に塩をいれて、ナトリウムを補っていましたが、食事に自然と塩分が入ると思うので、塩はやめにしました。 
 
(また別の日・・・・・) 
 最近、ペンギンの食事をどのように進めていくか、考えています。 
今日も訪問看護師さんが「ペンギンさん、今日は何食べたの?」と聞かれるのですが、ちょうどお昼前だったので、まだ何も食べていませんでした。 
 
 現在は胃ろうからの食事はそのままで、私の食事で食べやすいものをおすそ分けしたり、おやつを一緒に食べる程度です。 
昨日はカレー、その前は餃子を食べました。 
 
 大阪大学の舘村先生は、すこしずつ増やしていけばいいよ!とおっしゃって下さるのですが、計画性の無い私ですから、行き当たりばったりなのです。 
 何か実践例があったらよいのですが・・・・ 
 
 私の思いは、少しずつ食べていって、自分で口にもっていけるようになってから、全部食物に頼ることにしたいと思うのです。 
一つには栄養の管理が大変だということ、もう一つは私がすべて食べさせるのが大変だということ、もうひとつ言うなら、作るのも大変だと言うことなのです。 
 
 こんなふうに書いてみたら、なんと、ぐうたらな介護だろうかと、ちゃんとなさっている方に比べると恥ずかしい限りです。 
それでもなんとか進めていかないといけません。 
看護師さんに記録に残して下さい、と言われたので、できるだけ書き留めていきたいと思います。 
 
 今日は小さいイチゴ6個くらい、小鉢から手で自分で食べました。 
小さいアイスキャンデー1本。棒を持って食べました。最後の一口で少しこぼしましたが・・・・なんとか一人でできました。 
夕食はサバのみぞれ煮とごはん。 
これは私が口に入れました。 
・・・・・・ 
 久しぶりに過去のブログを読んでみると、その時々でなかなか工夫していますね(笑) 
だんだん食事の量を増やしていって、最後は朝食だけ経管栄養にしました。 
なぜかというと朝は私が忙しいから・・・・ははは。 
 その後2011年9月に舘村先生に「嚥下訓練終了」と言われ、胃ろうの取り換え時期の9月23日に胃ろうを抜去して閉じました。その日から絆創膏をしてお風呂にも入れました。 
 
 今は食べることが何よりも大好きな夫です。 
食べることができるようになって、身体的にもずいぶん変化がありました。 
2012年2月の今は歩行器を押して歩いています。車いすを卒業しようかな?・・・と思っております。 
 また昨年の10月から声が出るようになり、今までにも増して手がかかるようになりましたが(声の出始めたころが、一番しんどかったです)・・・まあ、これも進歩だと思って、前にすすんでいこうと考えています。 
これからもまだまだ大変なことを乗り越えていかなければならないと思いますが、先を行く方々が道を照らしてくださっているので、情報をたくさんいただいて、二人で前に進みたいと思っております。 
 
 抜去した胃ろうです。こんなものが入っていたんですね。 
 
 
 

 2011. 2. 23
 柔道部事故で寝たきり7年 家族、将来に不安
須賀川一中柔道部事故で寝たきり7年 家族、将来に不安 
             2010年10月11日(朝日新聞記事より改正) 
 
 須賀川市立第一中学校で2003年10月、1年生だった車谷(くるまたに)侑子さんが柔道部の練習中に頭を打ち、意識不明の重体となった事故から18日で7年になる。いまだ意識が戻らないまま侑子さんは先月20日、20歳の誕生日を迎えた。同市内に暮らす家族は、懸命に生きる侑子さんを在宅介護で支えながら事故と向き合っている。 
 いくつもの小窓から光が差し込む。ヨガの音楽などのCDが心地よく流れる。白を基調とした部屋のベッドに、侑子さんは横たわっていた。 
 「お誕生日おめでとう」と書かれたカードが添えられたミニーマウスのぬいぐるみと、笑顔で友人と写っている写真。介護ベッドが置かれているほかは、ごく普通の女の子の部屋だ。 
 玄関のスロープとともに5年前に増築した。「なるべく病室みたいにしたくなかった」と母の晴美さん(47)。ベッドの侑子さんのほおを、そっと手で包みこんだ。 
 侑子さんは事故後、寝たきりの生活が続いている。時折声を上げる以外、言葉もまだ戻っていない。 
 今年の誕生日の前日、家族写真を撮った。事故が起きてから初めてだ。「20歳だからって何が変わるわけではないけれど、一つの節目の年だから」と晴美さん。侑子さんはその日のために仕立てたブラウスと巻きスカートに身を包み、正装した両親、制服姿の弟がベッドに寄り添った。 
 これまでは侑子さんが元気だった頃の写真しか飾ってこなかった。「でも、侑子は一生懸命生きているし成長している。これを受け止め、侑子にも、支えてくれている周りの人にも感謝したいと考えられるようになった」 
 事故は車谷さん一家の生活を大きく変えた。当初、侑子さんは郡山市内の病院に入院し、8カ月で自宅近くの病院に転院。家族は通い詰めながら裁判を戦った。体力も気力もすり減らす日々。急性の病気ではないため、長期入院はできない。在宅介護以外に選択肢はなく、侑子さんを連れ帰ったのは06年1月だった。 
 ホームヘルパーは2人組で毎朝6時半から3時間おきに計5回、訪れる。手足の筋肉が弱らないよう、週1時間の訪問リハビリも欠かせない。ショートステイで侑子さんが外にいる間以外、晴美さんはほとんど家から動けない。業者が一カ月分のオムツを届けに来たり、侑子さんがむせると吸引機で痰(たん)を取り除いたり。 
 「あっというまに1日が過ぎる」と晴美さんは言う。「侑子は20歳とまだ若いが、私は年老いていく。将来、誰が侑子を支えられるのかと考えると不安がよぎる」。侑子さんのような人の受け入れ施設がないという制度の不備を何とかしてほしい、と思う。 
 民事訴訟の判決は、学校の事故報告書の信用性を疑問視し、「校長らは責任逃れをしようとした疑いが強い」と言及した。判決が確定した09年4月、父の政恭さん(54)は「事故はまだ終わっていない。組織的に隠蔽(いんぺい)し続けた幹部の責任が明らかにならなければいけない」と話した。その思いは変わらない。 
 「裁判が終わり、事故も風化していくのかと思うとたまらない」と政恭さん。事故を二度と起こしてほしくないからこそ、学校や市教委が変わることを願っている。(川口敦子) 
 ◇ 
 〈須賀川一中柔道部の事故〉 当時1年生の車谷侑子さんは柔道部長の男子生徒と練習中、何回も投げられた後意識を失い、呼吸困難になって倒れた。事故を未然に防ぐ注意義務を怠ったとして当時の顧問と副顧問の教員が書類送検されたが、08年8月、嫌疑不十分で不起訴処分になった。 
 一方、車谷さん側が須賀川市などを相手に起こした民事訴訟で、地裁郡山支部は、顧問教員について、侑子さんが1カ月前に脳内出血で入院したと知りながら練習させていたことなどから「過失があった」と認定、市などに対し総額約1億5千万円の支払いを命じる判決を言い渡した。判決は確定している。 
 
< 両親の思い > 
 
 福島県内では、ショ−トステイできる病院や施設も少ないため非常に不便です。緊急性のある時に利用できるレスパイト入院は認められていません。 
早急に安心して生活できる環境を整えてほしいと願います。 
 
河北新報 いのちの地平 「植物状態を超えて」2010年12月15日記事より 
クリック↓ 
http://homepage3.nifty.com/zsk/kahokushinporensaikiji/kahoku201012152.pdf
 
 

 2009. 4. 27
 バリアをこえて さらに輝け 命の炎(ほむら)!!
<家族会員の投稿から> 
 
 ある時、「○○さんもねぶたに行ってみない?」と知人に声をかけられ、予てから聞いていた「ケア付き青森ねぶたじょっぱり隊」に参加することにしました。以前その体験談を聞いたり、会の「機関誌」で読んだりした覚えはあるものの、まさか私たちが行けることになろうとは考えてもみませんでした。勧め方がうまかったのと、在宅介護にも少し慣れてきた、という自負があったからかも知れませんが、一番の理由は親や子供の介護に携わって、楽しみを先延ばししてはいけないということに気がついたからです。例え、病気でなくとも、明日を元気に迎えられるという保証はありません。だから今までのように、いつか又なんて暢気なことをいっていたら、将来その日はもう訪れないかも知れないと思いました。もとより1999年に受傷した長女は元気な時は旅行好きでしたし、主人もすぐに乗り気になってくれました。そして長女が通所しているケアセンターの施設長や、同じ利用者の6家族も一緒とあって心強い旅となりました。 
 
 8月2日、先ず羽田までの送迎はいつもの福祉タクシーを利用しました。飛行機内は狭いのでJALの職員の協力もあり、専用小型車いすで乗り移り、多少の窮屈さはあるものの、皆何とか収まりました。途中、体調を崩す方もなく青森空港に着くと、「じょっぱり隊」の若者たちが歓迎の横断幕、元気な声と拍手で出迎えてくださっていました。歓迎レセプションでは県庁ねぶた囃子の演奏があった模様です。私たちはそれには間に合いませんでしたが、夕食会は全て心のこもった手料理が運ばれてきました。ちゃんちゃん焼きやほたて汁、ちらし寿しなど、数々の郷土料理はとてもおいしく、また嚥下障がい者には食べやすいように形態や彩りに工夫が呈され、有難くとても嬉しかったです。やがて夜になり雨が降り始めてしまいましたが、私たちはテントに守られてねぶたを鑑賞しました。花火の号砲とともに始まった青森の夜を熱く焦がす勇壮なねぶた、壮厳な太鼓や笛の音色、情熱的なハネト(踊り手)の大群衆に圧倒され、見ている私たちの心も踊りだします。ラッセラー、ラッセラー、ラッセラッセ、ラッセラー、ねぶたを支える精悍な男衆も、きれいな衣装をまとった女衆も一体となって、青森の夜がねぶたに焼き尽くされています。長女も目を輝かせて見入っていました。そんな祭りを見た後、長女たちはボランティアの方にお風呂に入れていただき、私たちはホテルに送っていただきました。 
 
 翌3日も、朝から嚥下障がい用の朝食を運んでいただいたり、あれやこれやのお気遣いが続き、県民福祉プラザにおいて結団式です。太鼓演奏、手踊りの後、オープニングでは津軽三味線、尺八、笛の演奏があり、音色がホール一杯に響き渡りました。津軽の人は「ホントじょんずだなあ」としびれました。その後紙屋先生の開会宣言、関係者ご挨拶と続き、更に今回の参加者全員をスライドで名前と顔を紹介してくださいました。会場を改め昼食会でも心のこもった食べきれないほどの料理、手踊りの実演、そして全参加者または家族のテーブルスピーチがあり、各々の人となりが伝わり、和やかな雰囲気を作ってくださいました。その後、私たちはホールに戻ってハネトの踊り方の練習をし、香たちはバイタルチェックをしてもらいました。そして本人はもとより、その家族、付き添い人全員もハネトの衣装に着替え、記念撮影をしました。沢山の鈴をつけると一層気分も高揚してきました。 
 さあ、これでいよいよ本番です。19時、地元「菱友会」のねぶたのハネト隊に入っていざ出陣!祭りの炎、命の炎、さらに輝け!最初は照れていた主人もいつの間にか大乗りで跳ねだしています。長女もはちきれんばかりの満面の笑みです。私も車いすを押しながら跳ねてます。道中、沿道からの拍手と「ガンバレ!」の声援に我に返って思わずホロリ。ラッセラー、ラッセラー、ラッセラッセ、ラッセラー!こんな熱い体験は何年ぶりでしょう?生憎、全行程約4キロの内の残り三分の一位の所で雨脚が強くなり私たちは無念のリタイヤをしましたが、それでも熱いねぶたの夜を十分に満喫することができました。 
 
 翌4日は観光物産館アスパムで私がお土産を買う間も長女を看ていてくださり、最後は青森空港まで見送りに来てくださった心優しい津軽のボランティアの方々に、後ろ髪をひかれる思いでしたが、「有難う」と別れを告げました。あっという間の3日間でした。 
 この催しは、筑波大学名誉教授、紙屋克子先生率いる250名からなるボランティアの方々の誠意によって支えられています。また、「じょっぱり隊」を唯一快く受け入れてくださった青森菱友会(三菱関係の企業の集まり)の心意気も忘れてはいけないと思いました。13回目を迎えた今夏は7都道府県から30名の障がい者、高齢者の参加でした。ケア付のこのような催しが他の土地でも行われたらどんなに素晴らしいことでしょう。青森菱友会の会長が言っています。「この程度のことができなければだめじゃないか。その気になればできることなのだから。へこたれたことを言ってはいけない。社会には変えていかなければならないことはたくさんある」と。 「バリアをこえて さらに輝け 命の炎(ほむら)」これが今回のテーマです。人々の意識にこそバリアフリーをと願いつつ、そんな日の来ることを祈りたいと思います。来年の夏には皆さんも跳ねてみませんか?色々な楽しみを目標にして今日も健康維持に努めましょう。 
 
<紙屋 克子先生のホームページから(青森じょぱり隊)> 
http://www.e-nurse.ne.jp/column/kamiya1-2.html 
 
 
 

 2008. 10. 26
 14  致死性不整脈  愛する大切な息子
  
 
 息子が致死性不整脈による心肺停止・低酸素脳症になる10日前に、私たち夫婦は2泊3日の北海道旅行に行ってきました。 
息子が結婚30周年のお祝いをしてくれたのです。「お父さんたちは、来年の1月が結婚記念日だから僕が旅行の予約をしといたから少し早いけど楽しんできて。土産は蟹を!」と。こんな優しい気持ちを持った息子でした。 
 
【発症当日】 
 4年2ヶ月前、就寝中に私の耳に襖をガタガタと叩く音で目を覚ましました。辺りには異常がなかったが、別室で寝ている息子の部屋に入ってみると眼は開けっ放し、口から息を吹きっぱなしの重篤な状態であった。直ちに心肺蘇生を施し、救急隊が来たのを確認し「これで助かった。」と思いましたが、救急病院到着時には心肺停止状態であった。病院では救急措置を執ってもらい自発呼吸するようになったが、3分以上の心停止のため脳は壊滅状態で意識は戻らず、遷延性意識障害(植物状態)であることを宣告される。あの時、私が目を覚まさなかったら、息子は冷たくなっていた。神様に感謝。 
 
【読者へのお願い】 
 息子は心肺停止する前、時間にして56時間前に破傷風の予防接種をしており接種後、身体に倦怠感があり風邪を曳いたかなとも言っておりました。私は接種後のアナフィラキシーショックの労働災害ではないかと、労働災害補償基金に申請いたしましたが、不裁定となる。アナフィラキシーショックは、即時型と遅延型があり、息子は遅延型アナフィラキシーショックで心肺停止に陥ったと異議申し立てをしましたが、全国的にみてもその様な事例は無いと、再度不裁定の書類が提出された。この手記をお読みの方は、後者の遅延型アナフィラキシーショックにて罹災された家族の方等が在りましたらお知らせください。 
労災認定は、初期段階の主治医の見解(診断書)が大きなウエイトを占めていることを痛感した。 
 
【入院時系】 
 救急病院では、わずか50日で療養病院であるH病院に転院させられる。なんとか回復期を脳神経外科がある病院にと転院希望をしたが、救急病院からの診断書にはMRSA(耐性黄色ブドウ球菌)が一時陽性反応有りと明示してあったため入院拒否をされた。 
 H病院7ヶ月後、藤田保健衛生大学病院へ脊髄電気刺激装置(DCS)埋め込み施術のため転院。4ヶ月後、在宅に向けたリーフォームを条件でY病院に転院。翌年1月30日に自宅に戻る。息子、部屋に入ると泣き出す。入院中は無表情であった息子が泣く表現をしてくれた事に、家族全員で大泣きいたしました。1年7ヶ月間の入院生活であった。(600日) 
 
【在宅において】 
入院中、息子を一人置き去りにして病院から帰る辛さ・・・。看護師さん達が一生懸命頑張って施してくださる医療行為。しかしながら、親としては満足して帰れる状態ではありませんでした。早く家に連れて帰りたい。家族で息子を介護したい。この一念であった。 
在宅になって2年7ヶ月経過、その間年に1〜2回の割りで入院をいたしました。誤嚥性肺炎、気管支炎等である。気管を閉じてやりたいが、リスクが高いために親としては躊躇している状況である。 
「赤ん坊のように成ってしまった我が息子よ、父さんたちが見守っているから少しでも状態が良くなりますように」と祈念しつつ1日の無事を喜んでいます。 #aright# 
 
 
在宅時において、医師ならびに看護師さんから「在宅では過去にこの様な事例がありましたから気をつけてください。」と教示してもらえません。全て全国会のご家族先輩方からの見聞で今日があります。これからもよろしくお願いいたします。 
 
 
 
 

 2008. 5. 18
 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その1)                
                                   
 生来朗らかで活発な娘ですが、予ねて依り30年遅れている臨床薬剤師制度を何とか日本に導入しようとの当初の熱願に燃え、日本での大きな実績を挙げてきた調剤薬局の新規店舗開発の繁忙極まる薬剤師の活動を一旦止め、フリーでボランテイア活動を兼ね英国短期就労の道を選択。我々両親の猛反対を振り切り渡英。エリザベス財団の障害者施設でのボランティア活動を通じ英国の病院システムの調査等を実施することになった。 
 
1.事故発生状況 
英国での活動状況は割愛しますが、2005.3月初旬、娘は帰国一週間前、最後の旅行としてオーストリア・ザルツブルグへ出かけ、前から憧れていたミュージカル映画サウンドオブミュ-ジックのロケ地を訪問。その後たまたま同行の友人に誘われるままインスブルックでスキーを興じましたが、他のスキーヤーと衝突。運悪く仰向けに倒れ後頭部を打撲。その時は直ぐ起き上がったが、10分後に嘔吐し意識を消失。友人の迅速な手配によりスキー場から救急ヘリで麓の地元病院へ搬送された。 
幸い病院のベッドで意識が戻り、元気になり完全に回復するまでそこで治療することとなった。娘はもとより人一倍気を遣う方で、本人より「元気だから心配しないように」との連絡が携帯電話を通じ毎日のように日本の自宅に掛かってきた。 
しかし運命の悪戯はこの時から始まった。その病院で毎日のように検査が行われたようですが根本原因がはっきりせず、何とか小脳梗塞の可能性ありとの診断が出た。確かに身体の運動の麻痺があり、その時点では妥当な診断結果だと窺えた。逆に我々家族も安心もした。しかし本人からは「頭の痛さが取れない」旨を盛んに訴えて来ていた。実は後で分かったことであるが、この時既に脳底動脈解離の前兆が出ていてこの病気は本来安静第一の筈だった。専門の脳神経外科医でもこの診断は相当の経験がいるようで、残念なことに経験のないオーストリアでも地方の現地医師のことで、知る由もなく明らかな診断ミスで、そのことに気づかず、リハビリに入ってしまったようである。 
実は私どもの息子(娘の弟)が救急医で、病名は別として、病状を一早く察し、兎に角絶対安静の旨を繰り返し直接姉に訴えておりました。肝心の主治医まで届く筈もなく、安易にリハビリが続けられたようである。 
丁度入院一週間後3月17日現地病院で再度意識を喪失。再びICUへ逆戻りとなった。このことは毎日の娘からの電話連絡が急に途絶え、胸騒ぎがし3月16日保険屋に状況の確認を依頼したところその日の夜遅くこの悲報が自宅に知らされたのである。 
 
2.家族の救援(日本出発〜インスブルック大学) 
既に息子(U市在住)の方は姉の入院時より救援の為、勤務病院の許可を取り、単独で先に現地に赴く段取りをつけており現地病院の詳細な所在地がやっと把握でき出発の日程を調整しつつあった矢先のことであった。 
この悲報により最早一刻の猶予も許されない状況になった為、息子からも「姉が危険な状態でどうなるか分らないので家族全員即刻現地に向かう必要がある」との指示を受け、その夜は眠れぬまま3月17日の早朝より、オーストリア・インスブルックへのフライト予約を開始。本来航空機会社の予約はどこも午前10時からであるが、時間がなく7時頃より成田の航空会社に片っ端から直接電話を入れ、予約を交渉。その結果JALでその日の11:15成田発のフランクフルト行きのビジネスクラスが3席空席があった。全く奇跡としか言いようがなかった。直ぐ予約し確定したのが8時15分。出発まで3時間しかない。予約したもののF市から果たして間に合うのだろうか?成田は途中で乗り換える必要があり、便数も限られている。一刻も早く家を出る以外ない。運を天に任せ、時刻表も確認せず、家を飛び出したのが9時前。行き当たりばったりでとにかく電車に乗りました。電車の中から、航空会社へ、またU市から出発の息子との連絡。何とか成田に着いたのは私ども夫婦も息子も丁度11時。航空会社には連絡をとっておいたこともあり、VIP並みの出迎えを受け、出国手続きも別ルート。何とか他の乗客に迷惑を掛けることなく、機内に潜り込み、定刻には飛行機が出発することが出来た。またまた奇跡に近い思いがした。それにしても全くの慌しい出発であった。 
現地まで長時間の旅行になる為、機内では出来る限り睡眠を取るように努めた。飛行機は予定通りフランクフルトに到着。ここからプロペラ機に乗り換えインスブルック空港に着いたのは9時間の時差があるため同日3月17日夜中12時であった。飛行機のタラップを降りるや、我々家族を出迎えて呉れていたメッセンジャーガールが待っており、「娘さんは地元病院から本日インスブルック大学病院に転院されたので待機しているタクシーで直接大学に行って欲しい」との伝言を受けた。 
一瞬驚きましたが、保険屋の好意と直ぐわかり、そのタクシーに乗車しインスブルック大学病院へむかった。大学病院は夜中の為、既に正門が閉ざされており、裏門から入ったものの、娘の病室を見つけ出すのに30分以上掛かった。我々家族が病室に辿り着いたのは夜中の2時を回っていただろうか。しかし主治医の救急神経内科の先生は我々の到着を待っておられ、丁重に出迎えてくれ、娘の入っているICUに行く前に病状の説明を受けた。本来通訳を通して話が進められるところ、同じ救急医である息子がその役を担ってくれ、検査結果の専門的な詳細説明の遣り取りがあって、正式に娘が椎骨脳底動脈解離による脳幹梗塞であることが告げられた。その後我々家族はICUに案内され、やっと娘と対面。 
 2日前には電話で元気に「一人で帰れるから大丈夫、わざわざ迎えは良いよ」と言っていたばかりなのに、今人工呼吸器を着け目パッチをされ意識なく大の字でベッドに横たわっている変り果てた娘の姿を目の当たりにした。只、家族共々呆然とし、止め処もなく流れる涙を抑えきれず、それでもただただ娘の名前を空しく連呼する以外するすべがなかった。どれぐらい経っただろうかふと我に帰った時、老齢の我々夫婦には長時間の救援の旅行で何時倒れてもおかしくないほど身体が肉体的と精神的にも最早極限に達していてよろよろしていた。それを察してか「病院の近くにホテルを取るので、本来ICUは家族も入るのに制限はあるが、明日から毎日自由に見舞いが出来るよう特別に配慮するので今日はこれまでとし、今夜はとにかくゆっくりホテルで休まれるように」との主治医からのご厚意を賜った。 
 
3.現地救援生活(インスブルック大学救急神経科での看護とホテルでの苦悩) 
救援者が倒れてはそれこそ娘に申し訳ないと思い素直にご厚意に甘んじ病院を後にし、取り敢えずホテルに移動した。 
ホテルで、息子から主治医との話の補足を受けた。「姉は今、生死の間をさ迷っておりここ2~3日が峠だ」「喩え意識が回復しても四肢麻痺、発語不可等と重度の障害を免れない」と自分の所見も交え、今度は医師としての冷静な判断による診断の見解の説明があった。 
しかし親にとっては「どうなっても何としても命が助かって欲しい。そして日本に連れて帰りたい」その一念が脳裏を駆け巡り収まる事がなく、身体は休めてもその夜は直ぐ眠れるものではなかった。 
明くる日は皆睡眠不足とは言え自然と朝早くからこれからの現地での生活方法に話が進み、決して我々が倒れてはならず、息子の提案で、「一人ずつ病院には交代で行き、残った人は極力ホテルで休息をとろう」と言うことになり、何時まで続くのか分からぬホテルでの不安な救援生活が始まり、先ず身の回りの衣類の洗濯等から取り掛かることにした。 
大学病院での娘の状況は生命維持装置の計器類で雁字搦(がんじがら)めであるが、心臓の状態、飽和酸素濃度等のオシログラフで管理され、主治医の女医、更に担当の医師が頻繁にチェックしており、全く安心でき、許可ある時間帯は極力娘に話し掛けるようにした。もしこれらの装置がなければ娘は生命が維持できていないのだと思うと今更ながら医学の進歩に感謝の念を感じた。 
有り難い事に、イギリスでのボランテア仲間が次々と見舞いに来てくれ、娘のイギリスでの活動状況が手に取るように分り、親にとってはこれ以上の感激はなく、改めて娘の社交の広さに感心した。 
兎に角、娘を日本に連れて帰りたい。何が何でも日本に連れて帰るんだとの思いが日ごと強くなり、ホテルに帰ると毎晩家族で夜遅くまでその話が続いた。問題は人工呼吸器を着けたままでは商用機には乗れないと言うこと。いわゆる空の救急車と言われるAir Ambulance Flightのチャーター便しかないようだ。念のため見積もりも取った。 
何と20,000,000円。しかも支払いはキャッシュである。日本なら兎も角、遠く離れた異国で 
そのようなお金が捻出できる訳がない。頼みの保険屋は「そんな大金無理でしょう」と冷酷極まる返事で匙を投げ、本気で取りあってくれない。藁をも縋る思いで現地の日本大使館に相談もしたが、「金銭の援助は出来ません」とあっさり断られた。 
人工呼吸器はそう簡単に外れるものでもない。やはり相当長期ここ現地で娘は入院しなければならないのか。覚悟は決めつつも何とかならないものかと夜は苦悩の連続であった。 
そんな中、病院通いを始めて5日目の3月23日である。息子が主治医に呼ばれ「姉は病状が安定したので何処へでも移動出来ます」との待ちに待った返事が来た。有り難い。我々の思いが天に通じたんだ。「さあこれでやっと連れて帰れるぞ」。しかし歓喜も束の間まだ金銭の工面が付いていない。大至急お金を調達しなければならない。喜が今度は焦りに変わった。 
私自身、既に退職しており、このような大金の金ずるがない。一旦帰国し銀行に金の工面をしても担保の調査だけでも一ヶ月以上は掛かる。大手銀行は先ず貸さない。頼るは地銀となるが、残念ながら一介のサラリーマンでは地元の地銀と懇意に相談できる基盤とルートがない。昼間は娘の看護とお見舞いの接待で気が紛れたが、ホテルに戻るとこの問題で更に頭を抱える日が続いた。後は息子の病院に頼る以外にないと思った。 
息子は日本での姉の受入れ体制を病院側と詳細に打ち合わせており、既に帰国後の救急治療体制の打ち合わせは殆ど終わっていた。羽田か成田に着陸後、そこから救急ヘリでU市の病院まで運んで貰うと言うものであった。 
お金の工面は残された選択肢としてもはや病院側に依頼するしかないのではないか。家族全員がそう思った。病院側にとってはまことに厚かましくまた酷な話であったろう。 
しかし現実問題として、まだその病院での医師としての勤務年数が少ない息子にとって、このような大金の折衝をするには大変な精神的負担と勇気のいることであった。だから親から強制するわけにはいかなかった。また仮に頼んだとしてもこのような高額のお金をどうして貸してくれようか。その疑問の方が大きかった。 
しかし事態は一刻の猶予も許されない状況であり、「案ずるより産むがやすし」の格言を察した息子は素直に意を決し、病院側とお金の折衝を始めてくれたのである。 
折衝の詳細は省略するとして、ここでまた奇跡が起こった。何とオーケーが出たのである。まさかのまさかである。当に「窮すれば通ず」「人事を尽くして天命を待つ」の理り通りであった。この時の感激は紙面ではとても表現できないほど有り難く家族で思わず大きな歓声を上げた。そしてこれは「人一人の人命を救うと言う病院の崇高な理念の賜物だ」と病院の関係スタッフの方々に深く感謝せずには居られなかった。 
息子は直ちにスイスにあるAir Ambulance FlightのRega社と契約折衝を開始。ホテルからのFaxの遣り取りで簡単に契約が終了。その後、先方よりチャーター代金の支払方法が提示された。直ぐ日本側に連絡。日本とは9時間の時差があり、ホテルからの連絡もおいそれとは行かなかったが、病院側の献身的で迅速な対応により「先方に送金した」との朗報を受けて一日後 
Rega社よりAir Ambulance FlightのスケデュールがFaxされて来た。さすが手馴れたものである。3月24日11:00amインスブルック空港出発と決定された。着陸地は羽田空港を指定し、そこに病院のヘリを飛ばしU市の病院まで空輸する計画であった。しかし日本側で羽田空港の所轄である東京都とこの飛行計画を折衝するも管轄が違う、つまり救急ヘリは東京都とT県を跨いで飛ばせないと言う。当に日本の縦割り行政の最も悪いところでこんなところにも露出したのである。仕方なく急遽飛行実績のあるローカル空港に変更しRega社に伝えた。Rega社が早速ローカル空港と着陸許可折衝を始めようとしたところ英語が通じないとの苦情。確かにローカル空港は国際航空でないため英語の話せる航空管制官がいない。不便なところである。しかしローカル空港が羽田空港からのスタッフの応援を求め問題は直ぐ解決した。 
 
4.インスブルック空港離陸 
 3月24日は皆朝早く起床した。気温は低いが天候は良く空は清々しく澄渡り、まだ残雪に覆われたインスブルック連山がくっきりと一望され、あの華麗で勇壮な山で本当に娘がこのような不運の事故に遭ったのだろうかと不思議に思うぐらい堂々とし寧ろ誇らしげにさえ見えて静かにその威風を保っていた。 
荷物の機内持ち込みに制限があり、身軽で搭乗する必要から、不要な荷物は安い船便で日本に送ることとし、近くの郵便局に息子に同行した。手続きを済ませ、その足で息子は大学病院に行き、病院から空港までの救急車に医者として同席した。我々夫婦はホテルからタクシーでインスブルック空港へ向かった。娘は病院を出るときから既にRega社の専属の医師と看護師により手厚い看護を受け救急車に搬送され息子も一緒に同乗し空港へ向かった。 
 我々夫婦が空港へ着くや否やAir Ambulance Flightの機長がわざわざ出迎えてくれ、出国手続き後、丁重に機内へ誘導してくれた。娘は既にストレッチャーで運ばれ機内の所定の場所に固定され人工呼吸器を付けた状態でそのまま静かに眠っていた。機内はストレッチャーがもう一台入るスペースがあり付き添い家族は丁度3人のみであった。勿論お客は我々家族4人だけである。この日は朝より晴天の中、一幅の絵になる荘厳なインスブルック連山を後にインスブルック空港を離陸したのであります。 
 
5.日本着陸 
 機内では娘は飛行中、専属の医師(女医)と看護師に見守られ、至れり尽せりの医療管理体制で大変快適なフライトであった。このAir Ambulance Flightは患者の安静第一を考慮しエアータービランスを避ける為、通常の商用機の高度より低く飛ぶことになっており、そのせいか値段は高いが極めて安定した飛行であった。給油の為、一度ロシアのローカル空港に立ち寄った後、3月25日10:00am日本のローカル空港に無事着陸した。 
機体が着陸体勢に入って高度を下げるにつれ、この日3月下旬とは言え、何と地上は吹雪であることが分かった。しかも雪が水平に降っている猛吹雪であった。 
従って予定していた救急ヘリの出迎えがなく、その代わりに救急車が手配されていた。機内で入国手続きがなされ、娘は待機する救急車に搬送されたが、特別な防寒具もなく機内のストレチャー上シート一枚で約20分間、悪いことに25度摂氏の室内より零度以下の猛吹雪に曝されることになった。猛吹雪は全く予期せぬ出来事で、寧ろ救急車側が機内に入り毛布等の掛けるべきものと判断されたが何も成されず、娘はただ入国管理官らしき方が吹雪が掛からぬよう傘で覆った程度の処置で機外に出てきた為、唖然とした。そのうち毛布が用意されるだろうと安心して見守っていたが、意に反し救急車の中に入るまで何の処置もされなかった。多分機内で日本側の人工呼吸器等の生命維持装置の付け替えに手間取ったのであろうがそこに気を取られ、余りにも無防備で機外に連れ出したのは何とも残念な事であった。その約20分ただ娘に何もないようにと真剣に祈った。 
ともあれ娘は息子と一緒に救急車に移りU市の病院に、そして我々夫婦はバスで後からゆっくり病院に向かうことにした。 
 
 
 
 

 2008. 5. 17
 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その2)                   
6.U市の病院における治療 
 U市の病院では有難い事に息子が現地より病状を克明に伝えていたお陰でICUでは万全の治療体制が組まれ娘が病院に到着するや直ちに24時間の集中治療体制が始まった。 
 我々夫婦が病院に着いた時には、既に何の心配もなく手厚い看護が開始されていた。この時やっと今まで張詰めていた緊張感が解け、安心感と安堵感が一気に身体を走り、「ここまで何とか来れた。もう大丈夫。後は病院にお任せしよう」。そう思うと感謝の気持ちで胸が一杯になり、これまでにない不思議にも幸せな気持ちに浸ることが出来たのであった。 
 ところでICUでは我々夫婦の満足感とは裏腹に、娘は長旅の疲れと海外生活のストレスの為か、身体の抵抗力が弱っており意識障害とは別に、次々と余病を併発した。肺炎、ヘルペス等。 
肺炎はあの吹雪の中の移動が原因ではないかと思ったが息子は明白に否定し、医師としてインスブルック大学病院でのICUでの衛生管理に問題があり既に風邪をひいていたのと、インスブルックの町が山岳地で空気が極めて良く、残念ながら日本の汚い空気に触れた為であろうとの見解を示した。 
ICUでの治療は我々家族も入室が制限され、しかも短時間しか面談を許されなかった。ヘルペスは顔の全面に発疹が現れ傍から見ても本当に可哀想であった。しかし完治するので心配ないとの息子の説明にほっとした。事実現在ではその痕跡もない。 
 
7.日本における病状説明と親の失意と決意 
3月25日にICUに入った後、種々検査が行われ11日目の4月4日夕方遅く神経内科の主治医に呼ばれ、救急医の息子同席でこれまでの検査結果に基づき、娘の病状の話を初めて受けた。内容は次のようであった。 
「頭部打撲で血管(椎骨脳低動脈)が割れて(解離し)血液がそこに流入し、血管自体を閉塞し脳幹梗塞となった。大脳の損傷は全くないが、そこへ行く電線が故障し電流が流れなくなった状態のため、四肢麻痺、言語麻痺等所謂植物症の遷延性意識障害で現在の医学では治療法がなく生涯寝たきりだ。奇跡を願う以外に治療の方法がない。自分の経験では5000人中数件の稀な病気だ。どこの病院に行っても同じで、また受け入れてくれる病院もない」とのこと。 
担当主治医の淡々とした事務的で感情のない、しかも謙虚さが感じられない説明に、日本に行けば何とか成る、息子を含め、この病院に頼れば何とかしてくれると思っていた私の微かな望みは、ここで大きく崩れた。ある程度は覚悟をしていたものの、ここまではっきり言明されては取り付く手立てがない。動転しない親などいるであろうか?家族は何をすればよいのだろう?この説明が欠落している。家内は相当大きなショックを隠しきれず、「本人に治療法がなく一生寝たきりでは余りにも可哀想で、それなら一層のこと命がなかった方が幸せなのでは」と追い詰められたように涙ながら絶句し主治医に訴えた。さすがに主治医も動揺を隠し切れず、「医者の使命を全うする」との返事に終わった。 
治療法がないとか、寝たきりだとか、医者がこれだけはっきりしかも簡単に断言してよいのだろうか?同じ説明でも自分たちの医術の足りなさをもう少し認める謙虚さがあっても良いのでは。自信を持って治療法がないと言い切る態度は受け入れ難い。 
我々親にとってこの時のショックは並大抵な物ではなかった。まさに神も仏もなく全く救いのない無情で無慈悲の世界にドーンと突き落とされた。五感は宙に浮き、思考らしきものすら働かず、私の身体は空気の抜けた風船のようによなよなと萎んでしまい、最早立ち上がる気力が持てず、どうしようもない失意のどん底に追い遣られたのであった。 
 日本の医学を信じ、息子も居る日本では何とかなると硬く信じ、自己の財産を投げ打って必死の思いで連れて帰ってきてこの現実。余りにも残酷ではないか。これから家族として娘の為、何をしてやればいいのだろうか。途方に呉れた。 
 しかし現実はもっと厳しい。悲嘆に呉れてただ呆然としている猶予等ない。時は刻々と過ぎて行き立止ってくれない。目の前に娘が瀕死の状態で確実に助けを待っている。何とかしてやらねばならない。しかし医者は頼れない。そうであるなら娘を救うのは家族、いや親しかいない。「よしそれでは自分で娘を回復させてみる。良い治療法は絶対ある筈だ。それを見つけて何が何でも娘を必ず元気にして見せる」。と医学に素人の私が苦悩の末、何故か、このような断固たる誓いを立てたのである。普通医師から不治の病を言明されると、大抵は素人であるが故に諦め、仕方なく妥協し、成すすべもなくそれに屈服してしまいがちだが、上述の通り、余りにも真剣さを欠き、治療法がないのが寧ろ誇りでもあるかのような錯覚を覚えさせる冷淡さで、且つはっきりと断言されると、人間不思議なもので、逆に物凄い勢いの反発力を生むものである。しかもそれが泉の如く湧き出て、本来なら反抗のみに留まってしまうところ、有り難い事に前向きな積極志向に変わり、最早恨みや、ねたみと言った類の不平不満などを超越し、親なら誰でもそう思うであろう、ただ子供を救いたいと言う一途で極めて純粋な清い心になり、大げさに言えば所謂仏教の悟りのような境地に至ったのである。それがまた進化し、この逆境に勇気と希望を与えてくれる強靭な信念となり、これから在宅治療と言う私共親に取って全く未知の分野に突入しなければならないこの時の大きな心の支えともなった。そしてそれが更に在宅治療の情報収集活動の源泉たる行動力を随時誘発して呉れて、その後の娘の在宅療養をまともな軌道に乗せてくれたのである。 
 今省みるとこの時の突飛な決意が私共親にとってどれ程重要であり、娘の在宅介護の後ろ盾になったことか、以下その内容を順を追って記述したい。 
 
8.U市への転居 
 4月初旬ごろはまだ我々の実家はまだT県F市にあった。娘は病院側の治療に任せ、私と家内が交代でU市に引っ越す為の準備と段取り、25年間住んだマンションの売却手続きで不動産屋との折衝や、佳美の転居届け、扶養家族手続き、佳美友人のお見舞いの対応と、U市-F市を行ったり来たりで、U市では主に佳美の障害者助成金の申請、障害基礎年金の申請手続き等と非常に多忙な毎日であった。 
F市の住居(マンション)はさすがに直ぐには売れず、U市で静観することとし、4月27日午前中には引越しの家財積み込みが終わりマンションを明け渡し同時に不動産屋に鍵を渡し、午後3時ごろ家内とペットの猫2匹を連れ自家用車でF市を出発した。その日の夕方U市の移転先に到着した。移転場所は幸運にもインターネットで探し当てたもので、娘の介護にもまたペットの猫も飼っても良いと言う好条件の住居であった。家財道具は翌日の4月28日朝に到着し午前中で引越しが完了した。この日からU市での本格的な娘の介護の為の生活が始まった。 
家の中はダンボールの山で、老夫婦のことで余り無理も出来ず、少しずつ片付けることとし 
また家内と交代で娘の病院通いを開始した。 
 
9.一般病棟での人工呼吸器からの離脱 
ICUに入院して20日経った4月13日、病状が安定したため神経内科病棟へ移ることとなった。病室は常時監視の必要な重症者専用の個室であった。これまでの検査で判明したことは、眼も耳も機能上問題ないが認知出来ないため、思い出させる意味で、ICUでの治療と同じように病室でも出来るだけ視聴覚に刺激を与えた方が良いとのことであった。 
早速、音楽と映画を見せる為、娘自身が使っていたパソコンを病室に持ち込み、家内と交代で本人の好きなCD、DVDを見せることにした。 
娘は気管切開はICUの時に済んでいたがその上に人工呼吸器を装着していた。一般病棟に移ってから有り難くも自発呼吸が出てきた。何とか早く外れるよう看護師共々一生懸命取り組んで貰った。しかし副主治医に何度頼んでも「どんなに自発呼吸が進んでもリスクを考えると怖くて外すことは出来ない」と極めて消極的な返事しか聞けなかったので困っていたところ、たまたま病院側の配慮により救急医である息子が研修を兼ねて娘の副主治医に就いてはどうかと言う話が持ち上がり有り難くも7月1日着任の運びとなった。 
8月1日には胃瘻手術が実施された。息子は前の副主治医とは違い、積極的に人工呼吸器を外す事に専念して呉れた。看護師も我々夫婦も少しずつ人工呼吸器の稼動を止め、自発呼吸を半ば強制させ、もし血液中の酸素量が下がるようであればインスピロンにより酸素量を増やしながら、出来るだけ自発呼吸の時間を少しずつ増やし様子を見て呉れた。 
その内次第に自発呼吸が頻繁に起こるようになり、人工呼吸器を着けていても故障状態の警報が頻繁に鳴るようになり、娘自身も苦しがるようになった為、それを診た息子は全く強制的に撤去してしまったのである。時に8月12日であった。100%自発呼吸が進んでいたとは言えない状況であったが、勇気のいる適切な処置であった。多分救急医の経験の上に、患者が身内であったと言う二重の幸運の成せる業であったのか。人工呼吸器を外された娘は少し苦しんだが、よく耐え一週間後には見事完全離脱に成功した。 
ところで、病院自体は救急病院で生命は救うが遷延性意識障害者のような患者に対する早期治療の必要性はもとよりそれらの処方についての治療は皆無であり、まして回復に向けての治療、それらの病院の紹介、リハビリの必要性に関して助言、指導もまた皆無である。ただ月一回親元の大学病院からリハビリの専門医師の巡回があるのみで、大した診断もなく全く期待できない状態であった。 
私共の場合は医者を身内に持つ為、ここが一般の人と違うところであるが幸運にも娘は副主治医である息子の手中になった訳である。しかし残念ながら彼はまだ神経内科ではレジデントであり、救急内科治療で命は救えてもリハビリテーション等は未経験で、まして遷延性意識障害治療の知識はなく、娘を治すことには期待できないと言わざるを得なかった。 
娘はその後、一般重度症状患者としての治療-即ち生命維持継続に限定された治療が続けられ、もちろん遷延性意識障害としての治療はなく、その指導さえ得られないため、我々夫婦で工夫し視聴覚刺激治療の積りで娘の意識の高揚を願い、自主的に毎日朝から夜まで、時間の許す限り娘の好きなCD,DVD及びテレビ放送を病室でひっきりなしに流した。何人かの看護師さんはこれに協力してくれて、朝、病院に行くと、娘の好きなCD音楽が流れていたことがあった。 
身体は比較的安定していたが、熱が良く出てその度に、氷まくらで頭、額、脇、鼠蹊部を冷却、その都度採血は勿論、レントゲン等、しばしば大騒ぎであった。入院中随分この騒ぎが続いた。もっとも私自身も勿論その時は遷延性意識障害は体温調整が出来ないと言うことを知らず、病院のやることにただ感謝していた。しかし在宅に移ってからは体温上昇がなくなり、本人が精神的に一番安心したためかなと思っていたが、家族会の資料で遷延性意識障害者は体温調整ができないことを知り愕然としたものである。 
 
 
 
 

 2008. 5. 16
 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その3)                 
10.在宅療養への突入 
 人工呼吸器が外れたころよりそろそろ病院でのやるべきことはなくなってきたことを実感。そろそろ退院し早く別の治療をさせないと病状が固まって益々不利になるのではないかと心配になり、病院通いの合間を利用し、精力的に種々情報入手活動をした。 
 とにかく先ず佳美を自宅へ引き取るべく、介護設備の購入の準備が必要であった。設備の種類等の学習から始めたが、最初に市役所障害福祉課を訪れたところ、市の出先機関を紹介され、そこでの設備の選定途上で、適切な助言と指導と病院間の調整をして貰えるNPO法人に巡り合った。 
そこの担当者は娘の障害度合いをいち早く理解し、家族の在宅療養の簡便性を勘案し車椅子、ベッド、自宅でのリフト設備等の最適な設備の案内及び家族の体験等に時間を割いて呉れ、購入前の心構えの為、ある講演会への参加も薦められ出席した。この万全を期した手取り足取りの教導に在宅療養の一抹の不安は完全に一掃され、喩え首が座らず四肢麻痺者でも夫婦二人で在宅療養が充分可能で問題ないことを確信した。 
この確信を得たことで私の前述の信念は揺るぎなきものとなり、直ちに病院側に退院したい旨を申し出て、在宅療養の具体的な行動を開始しようとした。ところが息子を含み病院側から猛反対を受けた。理由は我々夫婦が介護で倒れるとのこと。我々を気遣って呉れるのは有難い事では有るが、娘の治療法はなく、どこも見てくれる病院はない筈なのに退院は駄目とは矛盾している。それならどうすれば良いのだろうか?以前の疑問が逡巡した。答えは明らかで病院間でのたらい回しである。そして鯔(とど)のつまりは在宅に戻ることになる。娘をたらい回しだけはさせたくない。 
息子の手前もあり強引に病院を飛び出すことは芳しくなく、早速NPO法人に事情を話したところ、「病院側は現在の進んだ介護施設を知らないのではないか。もしそうなら自分たちがそれらの施設を医長に説明し、出来ればそれらを病室にセットし退院前に取り扱いを練習され慣れた方が良い。医長を説得して許可を取って上げましょう」と、いとも簡単にこの大役を引き受けて呉れた。病院は恐らく前代未聞のことであろう。一介の患者が退院する為、自宅に据える設備を病室に持ち込んでテストするなんて。「先ず許可など出ないだろう」と実は私自身も半信半疑で事の成り行きを見守っていた。ところがとんとん拍子にことが進み、果たして、娘の病室で電動リフトを使用し車椅子への移乗テストが開始されたのである。 
先ず、門型レールがベッドを跨いで部屋一杯に据付けられた。そのあと特殊リフトが取り付けられセット完了。テスト期間は一週間とのこと。テストの初日には看護師長さんが初試乗することとなった。通常人手でベッドから娘を車椅子に移乗させるには少なくとも5人必要である。それがこの装置であれば2人でよい。問題は四肢麻痺の娘をどのように安全に吊り上げられるかに掛かっていた。結果は看護師長さんが余りにも簡単に吊り上げられ、何の抵抗もなく即座にゴーサインを出し、あっけなくテストは終了した。それと同時に暗黙のうちに娘の退院の了解も取れた訳である。 
考えてみると、病院側にはもう少し介護施設に対する知識が欲しいものだと思った。しかし病院で新しい装置を練習させて貰えた事、更に看護師長さんのご厚意で病院にあった最新のエアマットのテストもさせて貰い、お蔭様で医療関係者全員の理解と協力が得られ、在宅療養に向けて大きな一歩が踏み出された。 
 更に訪問看護師への挨拶、居宅介護事業者との打ち合わせ、往診医師への挨拶、訪問入浴との打ち合わせ、デイサービスの調査、介護設備/用品の購入手続きと毎日繁忙を極めた。 
病院側の指導により、10月初旬に一旦練習の為、自宅への外泊が実施され、問題なきことを確認し、2005年11月25日、入院より丁度8ヶ月目に無事退院した。 
病院側の配慮として、退院後3ヵ月毎に娘の健康チェック、胃瘻チュウブ交換及び家族の介護軽減にと2週間入院しても良いとの申し出があった。有り難い事ではあったが、実は現在のところ在宅療養の方が健康管理が旨く行き、近くのクリニックの先生の往診もあり、更に息子が常時、診てくれる為、あまり病院には迷惑を掛けずに済んでいる。 
NPO法人の万全の指導により在宅用介護施設は無難に調達できており、病院と違って娘が横にいるため安心出来、余計な心配をする必要もなく、吸引も何時でも出来、全体として娘の在宅療養生活は非常にスムーズに滑り出した。娘自体もこれを望んでいたことではないかと思う。 
ここに我々夫婦は何時終わるとも知れぬ24時間介護の生活に突入した。不思議と不安がなかった。寧ろこれからは自由に何でも好きな治療が出来ると言う開放感と安堵感の方が大きかった。そしてこれからは娘の回復に少しでも繋がると思える治療及びリハビリは何でもトライ出来る喜びもあったのも事実である。 
 
11.脊髄後索電気刺激(DCS)手術  
在宅療養に入るや否や、以前に聞いて記憶にあったNHKでの遷延性意識障害者の最先端治療(DCS)に関する放送番組からT県で治療出来る病院(J大学病院)及び担当医師(脳神経外科K助教授)をNHKから聴取。その病院に予約を取り2005年12月15日外来患者の家族として相談に行った。その先生の説明によると娘は脳に外傷がなく受傷一年以内であれば、電圧刺激で回復の可能性がある。但し成功確立は40%だがあくまでリハビリの一つとして考えて欲しいとのことであった。 
年明けての2006年2月6日に入院。電極の埋め込み手術を2006年2月8日に実施した。所謂上位頸髄硬膜外刺激療法である。我々夫婦にとっては大きな望みを託した。 
 在宅での注意としてJ大のK先生からは出来るだけ、視聴覚に刺激を与えるよう指示があった為、以前病院にいる時以上に娘の好きな音楽、映画をCD,DVDで頻繁に流した。また娘の国内外から友人も入れ替わり立ち代り自宅に見舞いに来てくれ、お蔭様で娘の周りは日々結構賑やかになっていた。娘の顔つきが変わってきたようだった。 
 6ヶ月経った2006年7月26日に途中の経過の診断でJ大を訪問。この時は残念ながら電圧の刺激に慣れてしまい顕著な血流変化が起こらなくなったようで、電圧を1.8から3.5Vに上げることになった。 
2006年7月24日にはイギリスから日本旅行(本来は娘が案内する約束であった)を兼ね友人2人が見舞いに来てくれた為、我が家に宿を取らせ、2006年8月1日思い切って彼らと一緒に、娘が幼いころ育った思い出のF市や学生時代に過ごしたK市を一泊旅行で訪問した。彼ら二人が娘の介助をしてくれた。 
まさかここまで旅行出来るとは考えもしなかったことで、適切な車椅子を選定して貰った 
NPO法人のお陰と感謝せずにはおられなかった。秋には紅葉にと車椅子での積極的な旅行及び外出を続けた。 
DCS治療を続けながらも、この頃関係医療機関に電話を掛け捲っていた。例えば所沢の国立身体障害リハビリセンター、参考までに交通事故専門の千葉療護センター等。特に地元のT県O市のKF大学クリニックの耳鼻咽喉科にはカニューレ抜去の相談に伺い、後日2006年12月27日に娘の診断をして貰った。鼻より挿入したマイクロスコープで現状確認により、唾液が気管に流れ込んでおり、この量が減少しないと、抜去は難しいとの結果に終わり、成果は得られなかった。 
またマッサージ、リフレクソロジー(足の反射帯治療法)、生のピアノ伴奏による音楽療法等も同時に進めた。そしてDCSの効果の判断基準となる一年目を迎え、2007年2月14日に再度自治医大を訪問した。 
治療効果を高める為、3.5Vに電圧負荷を上げたが以前7月26日に観測された脳血流の顕著な変化は今回は見られなかった。「今後はこの方法(DCS治療)を主体とせずこれ以外にも意識回復に対する取り組みをしながら継続されるよう」との指導を受けた。大変残念なことであった。しかしこれで諦めるわけにはいかない。まだまだ他の方法がある筈と意を強くして前向きで進むことにした。 
 
12.紙屋克子先生との出会い 
このころ情報探索の最中インターネットで全国遷延性意識障害者・家族の会に巡り合い即座に入会した。そして送られてきた貴重な会報を貪り読んでいた。会報で紙屋先生の記事を知り、遷延性意識障害者への救済の為のご活躍に大きな感動を覚え、何とかこの先生に在宅で見て貰えないだろうかと内心密かに思いを巡らせていたのである。 
2007年2月1日には家族会のTさんにそのことを相談。直接電話されたら良いとのご助言を頂き2007年2月8日に思い切って紙屋先生に直接電話した。この日はいみじくも一年前娘が自治医大でDCSの電極挿入の手術をした日であった。 
先生に娘の病状を説明後「うちの娘を見て欲しい」と単刀直入に申し上げたところ、「分りました。お宅に伺います。ただ今年は予定が一杯で余裕なく新年度に新しく予算を取るので4月にご自宅にお伺いします」とのご回答。「まさか」と思わず我が目を疑った。あのご高名の先生が見ず知らずの我が家へ来て頂ける。何と有り難い事か!感激で思わず全身が身震いした。その後何度かFAXで交信させて頂き、拙宅訪問日が5月25日に決定。既に先生の年間スケジュールがびっしり決まっておられるご予定の中から何とか空いた日を捻出して頂いたのである。感謝に耐えない思いであった。ただこれだけ著名な先生が我が家だけの訪問では常識に考えても余りにも勿体ないしまた恐れ多いと思った。そこで厚かましくも更に息子の病院でのご講演をお願いした。先生はこれも快くご引受け下さった。講演は「患者の心に届くケアとは」と題し、当日の午後6:00から病院の多目的ホールで雨にも拘らず実に360人の参加者が集まり、その熱気溢れる聴衆者を前にご熱弁を振るわれ、講演は後日地元のS新聞にも取り上げられ大成功理に終わった。 
 話の順序が逆になりましたが、当日5月25日午後3時間半にも及ぶ拙宅での紙屋先生のご指導は、至れり尽くせりで、訪問看護師は勿論のことヘルパーさんにも同席し、こと細かく先生ご指導して頂いた。主旨は他動による意識の鼓舞で内容は下記の通りです。 
     ベッド上顔面ケア 
     ベッド上端座位によるモーニングケア 
     床上での腹臥位及び身体、脚のリハビリ 
     トランポリン 
特にお持ち頂いた専用のズボンの着用は娘を両側から2人と頭を支える1人の3人でいとも簡単に何処へでも移動できること、喩え四肢麻痺でも健常人にも勝るとも劣らぬ活動が出来そうだと言う事が分かり、これまでは特殊シートを使っても5人がかりでしか横移動が出来ないと思っていたので、その喜びは大きかった。さすが紙屋先生だなあとしきりに感激した。 
 またトランポリンは既に野田先生の音楽運動療法で使用されているものであるが、その場合専用のトランポリンが必要でそれ自体まだ高額で購入し難いものだが、紙屋先生の方では幼児用の安価な円形型トランポリンで良く、スペースも取らず上記の専用ズボンによる移動方式でトランポリンの中央に娘を座らせ、1人が娘の背後に立ち後ろから頭と身体を支えて上下振動を起こすと言う非常に簡単な方法で実施できるものである。当然音楽を流し音楽運動療法として活用させて頂いております。 
 
13.成果 
 紙屋先生の看護プログラムを在宅で続けてそろそろ一年になりますが、手の握り、足の反応等、少しずつ、回復の兆しが出てきておりますが、今、一番の具体的な回復の兆候としては嚥下反応が格段に向上したことです。 
 全く何も喉から飲めなかった娘が、果汁ジュース、清涼飲料水、ゼリー、プリン、お茶等ゴクゴク飲むまでに回復しております。まだ唾液が気管に流れカニューレを外せるところまでには到って居りませんが、これからもまだまだ粘り強く継続して行く予定です。 
 これからまだまだ回復の道程は長いのですが、病院からの退院の時は、ただ寝ているだけですと言明され絶望感に明け暮れていた頃から考えると夢のようで、回復が具体的に眼で確認出来、先が明るく希望が出てきて、確かに24時間の苦しい在宅介護生活ですが、楽しみも感じられるように成ってきました。  
何と言っても家族会へのご支援には心より感謝申し上げます。 #aright# 
 
14.今後のこと              
この上は同じ悩みを持たれ苦労されている遷延性意識障害者に対しても私共と同じ楽しみを享受出来るよう、家族会会員を広め、T県内で結束を計り遷延性意識障害者の生活支援の改善に取り組んで行きたいと思います。 
 
 
 
 
 


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