2008. 5. 18 13 スキー事故 家族会への投稿文 (その1)
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生来朗らかで活発な娘ですが、予ねて依り30年遅れている臨床薬剤師制度を何とか日本に導入しようとの当初の熱願に燃え、日本での大きな実績を挙げてきた調剤薬局の新規店舗開発の繁忙極まる薬剤師の活動を一旦止め、フリーでボランテイア活動を兼ね英国短期就労の道を選択。我々両親の猛反対を振り切り渡英。エリザベス財団の障害者施設でのボランティア活動を通じ英国の病院システムの調査等を実施することになった。 1.事故発生状況 英国での活動状況は割愛しますが、2005.3月初旬、娘は帰国一週間前、最後の旅行としてオーストリア・ザルツブルグへ出かけ、前から憧れていたミュージカル映画サウンドオブミュ-ジックのロケ地を訪問。その後たまたま同行の友人に誘われるままインスブルックでスキーを興じましたが、他のスキーヤーと衝突。運悪く仰向けに倒れ後頭部を打撲。その時は直ぐ起き上がったが、10分後に嘔吐し意識を消失。友人の迅速な手配によりスキー場から救急ヘリで麓の地元病院へ搬送された。 幸い病院のベッドで意識が戻り、元気になり完全に回復するまでそこで治療することとなった。娘はもとより人一倍気を遣う方で、本人より「元気だから心配しないように」との連絡が携帯電話を通じ毎日のように日本の自宅に掛かってきた。 しかし運命の悪戯はこの時から始まった。その病院で毎日のように検査が行われたようですが根本原因がはっきりせず、何とか小脳梗塞の可能性ありとの診断が出た。確かに身体の運動の麻痺があり、その時点では妥当な診断結果だと窺えた。逆に我々家族も安心もした。しかし本人からは「頭の痛さが取れない」旨を盛んに訴えて来ていた。実は後で分かったことであるが、この時既に脳底動脈解離の前兆が出ていてこの病気は本来安静第一の筈だった。専門の脳神経外科医でもこの診断は相当の経験がいるようで、残念なことに経験のないオーストリアでも地方の現地医師のことで、知る由もなく明らかな診断ミスで、そのことに気づかず、リハビリに入ってしまったようである。 実は私どもの息子(娘の弟)が救急医で、病名は別として、病状を一早く察し、兎に角絶対安静の旨を繰り返し直接姉に訴えておりました。肝心の主治医まで届く筈もなく、安易にリハビリが続けられたようである。 丁度入院一週間後3月17日現地病院で再度意識を喪失。再びICUへ逆戻りとなった。このことは毎日の娘からの電話連絡が急に途絶え、胸騒ぎがし3月16日保険屋に状況の確認を依頼したところその日の夜遅くこの悲報が自宅に知らされたのである。 2.家族の救援(日本出発〜インスブルック大学) 既に息子(U市在住)の方は姉の入院時より救援の為、勤務病院の許可を取り、単独で先に現地に赴く段取りをつけており現地病院の詳細な所在地がやっと把握でき出発の日程を調整しつつあった矢先のことであった。 この悲報により最早一刻の猶予も許されない状況になった為、息子からも「姉が危険な状態でどうなるか分らないので家族全員即刻現地に向かう必要がある」との指示を受け、その夜は眠れぬまま3月17日の早朝より、オーストリア・インスブルックへのフライト予約を開始。本来航空機会社の予約はどこも午前10時からであるが、時間がなく7時頃より成田の航空会社に片っ端から直接電話を入れ、予約を交渉。その結果JALでその日の11:15成田発のフランクフルト行きのビジネスクラスが3席空席があった。全く奇跡としか言いようがなかった。直ぐ予約し確定したのが8時15分。出発まで3時間しかない。予約したもののF市から果たして間に合うのだろうか?成田は途中で乗り換える必要があり、便数も限られている。一刻も早く家を出る以外ない。運を天に任せ、時刻表も確認せず、家を飛び出したのが9時前。行き当たりばったりでとにかく電車に乗りました。電車の中から、航空会社へ、またU市から出発の息子との連絡。何とか成田に着いたのは私ども夫婦も息子も丁度11時。航空会社には連絡をとっておいたこともあり、VIP並みの出迎えを受け、出国手続きも別ルート。何とか他の乗客に迷惑を掛けることなく、機内に潜り込み、定刻には飛行機が出発することが出来た。またまた奇跡に近い思いがした。それにしても全くの慌しい出発であった。 現地まで長時間の旅行になる為、機内では出来る限り睡眠を取るように努めた。飛行機は予定通りフランクフルトに到着。ここからプロペラ機に乗り換えインスブルック空港に着いたのは9時間の時差があるため同日3月17日夜中12時であった。飛行機のタラップを降りるや、我々家族を出迎えて呉れていたメッセンジャーガールが待っており、「娘さんは地元病院から本日インスブルック大学病院に転院されたので待機しているタクシーで直接大学に行って欲しい」との伝言を受けた。 一瞬驚きましたが、保険屋の好意と直ぐわかり、そのタクシーに乗車しインスブルック大学病院へむかった。大学病院は夜中の為、既に正門が閉ざされており、裏門から入ったものの、娘の病室を見つけ出すのに30分以上掛かった。我々家族が病室に辿り着いたのは夜中の2時を回っていただろうか。しかし主治医の救急神経内科の先生は我々の到着を待っておられ、丁重に出迎えてくれ、娘の入っているICUに行く前に病状の説明を受けた。本来通訳を通して話が進められるところ、同じ救急医である息子がその役を担ってくれ、検査結果の専門的な詳細説明の遣り取りがあって、正式に娘が椎骨脳底動脈解離による脳幹梗塞であることが告げられた。その後我々家族はICUに案内され、やっと娘と対面。 2日前には電話で元気に「一人で帰れるから大丈夫、わざわざ迎えは良いよ」と言っていたばかりなのに、今人工呼吸器を着け目パッチをされ意識なく大の字でベッドに横たわっている変り果てた娘の姿を目の当たりにした。只、家族共々呆然とし、止め処もなく流れる涙を抑えきれず、それでもただただ娘の名前を空しく連呼する以外するすべがなかった。どれぐらい経っただろうかふと我に帰った時、老齢の我々夫婦には長時間の救援の旅行で何時倒れてもおかしくないほど身体が肉体的と精神的にも最早極限に達していてよろよろしていた。それを察してか「病院の近くにホテルを取るので、本来ICUは家族も入るのに制限はあるが、明日から毎日自由に見舞いが出来るよう特別に配慮するので今日はこれまでとし、今夜はとにかくゆっくりホテルで休まれるように」との主治医からのご厚意を賜った。 3.現地救援生活(インスブルック大学救急神経科での看護とホテルでの苦悩) 救援者が倒れてはそれこそ娘に申し訳ないと思い素直にご厚意に甘んじ病院を後にし、取り敢えずホテルに移動した。 ホテルで、息子から主治医との話の補足を受けた。「姉は今、生死の間をさ迷っておりここ2~3日が峠だ」「喩え意識が回復しても四肢麻痺、発語不可等と重度の障害を免れない」と自分の所見も交え、今度は医師としての冷静な判断による診断の見解の説明があった。 しかし親にとっては「どうなっても何としても命が助かって欲しい。そして日本に連れて帰りたい」その一念が脳裏を駆け巡り収まる事がなく、身体は休めてもその夜は直ぐ眠れるものではなかった。 明くる日は皆睡眠不足とは言え自然と朝早くからこれからの現地での生活方法に話が進み、決して我々が倒れてはならず、息子の提案で、「一人ずつ病院には交代で行き、残った人は極力ホテルで休息をとろう」と言うことになり、何時まで続くのか分からぬホテルでの不安な救援生活が始まり、先ず身の回りの衣類の洗濯等から取り掛かることにした。 大学病院での娘の状況は生命維持装置の計器類で雁字搦(がんじがら)めであるが、心臓の状態、飽和酸素濃度等のオシログラフで管理され、主治医の女医、更に担当の医師が頻繁にチェックしており、全く安心でき、許可ある時間帯は極力娘に話し掛けるようにした。もしこれらの装置がなければ娘は生命が維持できていないのだと思うと今更ながら医学の進歩に感謝の念を感じた。 有り難い事に、イギリスでのボランテア仲間が次々と見舞いに来てくれ、娘のイギリスでの活動状況が手に取るように分り、親にとってはこれ以上の感激はなく、改めて娘の社交の広さに感心した。 兎に角、娘を日本に連れて帰りたい。何が何でも日本に連れて帰るんだとの思いが日ごと強くなり、ホテルに帰ると毎晩家族で夜遅くまでその話が続いた。問題は人工呼吸器を着けたままでは商用機には乗れないと言うこと。いわゆる空の救急車と言われるAir Ambulance Flightのチャーター便しかないようだ。念のため見積もりも取った。 何と20,000,000円。しかも支払いはキャッシュである。日本なら兎も角、遠く離れた異国で そのようなお金が捻出できる訳がない。頼みの保険屋は「そんな大金無理でしょう」と冷酷極まる返事で匙を投げ、本気で取りあってくれない。藁をも縋る思いで現地の日本大使館に相談もしたが、「金銭の援助は出来ません」とあっさり断られた。 人工呼吸器はそう簡単に外れるものでもない。やはり相当長期ここ現地で娘は入院しなければならないのか。覚悟は決めつつも何とかならないものかと夜は苦悩の連続であった。 そんな中、病院通いを始めて5日目の3月23日である。息子が主治医に呼ばれ「姉は病状が安定したので何処へでも移動出来ます」との待ちに待った返事が来た。有り難い。我々の思いが天に通じたんだ。「さあこれでやっと連れて帰れるぞ」。しかし歓喜も束の間まだ金銭の工面が付いていない。大至急お金を調達しなければならない。喜が今度は焦りに変わった。 私自身、既に退職しており、このような大金の金ずるがない。一旦帰国し銀行に金の工面をしても担保の調査だけでも一ヶ月以上は掛かる。大手銀行は先ず貸さない。頼るは地銀となるが、残念ながら一介のサラリーマンでは地元の地銀と懇意に相談できる基盤とルートがない。昼間は娘の看護とお見舞いの接待で気が紛れたが、ホテルに戻るとこの問題で更に頭を抱える日が続いた。後は息子の病院に頼る以外にないと思った。 息子は日本での姉の受入れ体制を病院側と詳細に打ち合わせており、既に帰国後の救急治療体制の打ち合わせは殆ど終わっていた。羽田か成田に着陸後、そこから救急ヘリでU市の病院まで運んで貰うと言うものであった。 お金の工面は残された選択肢としてもはや病院側に依頼するしかないのではないか。家族全員がそう思った。病院側にとってはまことに厚かましくまた酷な話であったろう。 しかし現実問題として、まだその病院での医師としての勤務年数が少ない息子にとって、このような大金の折衝をするには大変な精神的負担と勇気のいることであった。だから親から強制するわけにはいかなかった。また仮に頼んだとしてもこのような高額のお金をどうして貸してくれようか。その疑問の方が大きかった。 しかし事態は一刻の猶予も許されない状況であり、「案ずるより産むがやすし」の格言を察した息子は素直に意を決し、病院側とお金の折衝を始めてくれたのである。 折衝の詳細は省略するとして、ここでまた奇跡が起こった。何とオーケーが出たのである。まさかのまさかである。当に「窮すれば通ず」「人事を尽くして天命を待つ」の理り通りであった。この時の感激は紙面ではとても表現できないほど有り難く家族で思わず大きな歓声を上げた。そしてこれは「人一人の人命を救うと言う病院の崇高な理念の賜物だ」と病院の関係スタッフの方々に深く感謝せずには居られなかった。 息子は直ちにスイスにあるAir Ambulance FlightのRega社と契約折衝を開始。ホテルからのFaxの遣り取りで簡単に契約が終了。その後、先方よりチャーター代金の支払方法が提示された。直ぐ日本側に連絡。日本とは9時間の時差があり、ホテルからの連絡もおいそれとは行かなかったが、病院側の献身的で迅速な対応により「先方に送金した」との朗報を受けて一日後 Rega社よりAir Ambulance FlightのスケデュールがFaxされて来た。さすが手馴れたものである。3月24日11:00amインスブルック空港出発と決定された。着陸地は羽田空港を指定し、そこに病院のヘリを飛ばしU市の病院まで空輸する計画であった。しかし日本側で羽田空港の所轄である東京都とこの飛行計画を折衝するも管轄が違う、つまり救急ヘリは東京都とT県を跨いで飛ばせないと言う。当に日本の縦割り行政の最も悪いところでこんなところにも露出したのである。仕方なく急遽飛行実績のあるローカル空港に変更しRega社に伝えた。Rega社が早速ローカル空港と着陸許可折衝を始めようとしたところ英語が通じないとの苦情。確かにローカル空港は国際航空でないため英語の話せる航空管制官がいない。不便なところである。しかしローカル空港が羽田空港からのスタッフの応援を求め問題は直ぐ解決した。 4.インスブルック空港離陸 3月24日は皆朝早く起床した。気温は低いが天候は良く空は清々しく澄渡り、まだ残雪に覆われたインスブルック連山がくっきりと一望され、あの華麗で勇壮な山で本当に娘がこのような不運の事故に遭ったのだろうかと不思議に思うぐらい堂々とし寧ろ誇らしげにさえ見えて静かにその威風を保っていた。 荷物の機内持ち込みに制限があり、身軽で搭乗する必要から、不要な荷物は安い船便で日本に送ることとし、近くの郵便局に息子に同行した。手続きを済ませ、その足で息子は大学病院に行き、病院から空港までの救急車に医者として同席した。我々夫婦はホテルからタクシーでインスブルック空港へ向かった。娘は病院を出るときから既にRega社の専属の医師と看護師により手厚い看護を受け救急車に搬送され息子も一緒に同乗し空港へ向かった。 我々夫婦が空港へ着くや否やAir Ambulance Flightの機長がわざわざ出迎えてくれ、出国手続き後、丁重に機内へ誘導してくれた。娘は既にストレッチャーで運ばれ機内の所定の場所に固定され人工呼吸器を付けた状態でそのまま静かに眠っていた。機内はストレッチャーがもう一台入るスペースがあり付き添い家族は丁度3人のみであった。勿論お客は我々家族4人だけである。この日は朝より晴天の中、一幅の絵になる荘厳なインスブルック連山を後にインスブルック空港を離陸したのであります。 5.日本着陸 機内では娘は飛行中、専属の医師(女医)と看護師に見守られ、至れり尽せりの医療管理体制で大変快適なフライトであった。このAir Ambulance Flightは患者の安静第一を考慮しエアータービランスを避ける為、通常の商用機の高度より低く飛ぶことになっており、そのせいか値段は高いが極めて安定した飛行であった。給油の為、一度ロシアのローカル空港に立ち寄った後、3月25日10:00am日本のローカル空港に無事着陸した。 機体が着陸体勢に入って高度を下げるにつれ、この日3月下旬とは言え、何と地上は吹雪であることが分かった。しかも雪が水平に降っている猛吹雪であった。 従って予定していた救急ヘリの出迎えがなく、その代わりに救急車が手配されていた。機内で入国手続きがなされ、娘は待機する救急車に搬送されたが、特別な防寒具もなく機内のストレチャー上シート一枚で約20分間、悪いことに25度摂氏の室内より零度以下の猛吹雪に曝されることになった。猛吹雪は全く予期せぬ出来事で、寧ろ救急車側が機内に入り毛布等の掛けるべきものと判断されたが何も成されず、娘はただ入国管理官らしき方が吹雪が掛からぬよう傘で覆った程度の処置で機外に出てきた為、唖然とした。そのうち毛布が用意されるだろうと安心して見守っていたが、意に反し救急車の中に入るまで何の処置もされなかった。多分機内で日本側の人工呼吸器等の生命維持装置の付け替えに手間取ったのであろうがそこに気を取られ、余りにも無防備で機外に連れ出したのは何とも残念な事であった。その約20分ただ娘に何もないようにと真剣に祈った。 ともあれ娘は息子と一緒に救急車に移りU市の病院に、そして我々夫婦はバスで後からゆっくり病院に向かうことにした。
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