the world is not enough


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弔辞  ..t      返信
 
  神宮前日記

For Zaha Hadid.

Architecture has been assassinated.
Upon hearing the tragic news about Zaha Hadid, I became angry.
When she appeared in the world of architecture thirty years ago, I thought of her as the savior who would revive architecture from its moribund condition.

As an architect, she was fated to bear two handicaps – her culture and her gender – but she turned these into a launching pad for the creation of an image of diffused tension. Instead of the tricolor banner depicted by Delacroix, she raised the flag of architecture and guided us like the figure of a Muse. I cannot believe that figure has vanished. It seemed that her career had just begun. If we assume her creation of design imagery to be an innate talent, the next task is its architectural realization, which has been unexpectedly suspended despite having just begun.

The figure of architecture that she embodied as latent potential has vanished. It is an immeasurable loss.

There had been a plan to realize, several years from now, a glimpse of this imagery on an island nation in the Far East. However, the government of this country, as if preparing for a new war, used the imagery of Zaha Hadid as a trump card to attract people to the Olympic Games, but failed to control the project and discarded it due to a skillful manipulation of the xenophobia of public opinion. Zaha herself, caught up in this opportunistic drama, never compromised her integrity as a professional architect. But her level of anxiety is unimaginable.

It was an assassination of Architecture.
Once again, I become angry.

Arata Isozaki

*********

ザハ・ハディドへ

〈建築〉が暗殺された。
ザハ・ハディドの悲報を聞いて、私は憤っている。
30年昔、世界の建築界に彼女が登場したとき、瀕死状態にある建築を蘇生させる救い主があらわれたように思った。

彼女は建築家にとってはハンディキャップになる2つの宿命―異文化と女性―を背負っていたのに、それを逆に跳躍台として、張力の漲るイメージを創りだした。ドラクロワの描いた3色旗にかわり、〈建築〉の旗をもかかげて先導するミューズのような姿であった。その姿が消えた、とは信じられない。彼女のキャリアは始まったばかりだったではないか。デザインのイメージの創出が天賦の才能であったとするならば、その建築的実現が次の仕事であり、それがいま始まったばかりなのに、不意の中断が訪れた。

彼女の内部にひそむ可能性として体現されていた〈建築〉の姿が消えたのだ。はかり知れない損失である。

そのイメージの片鱗が、あと数年で極東の島国に実現する予定であった。ところがあらたに戦争を準備しているこの国の政府は、ザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながら、プロジェクトの制御に失敗し、巧妙に操作された世論の排外主義を頼んで廃案にしてしまった。その迷走劇に巻き込まれたザハ本人はプロフェッショナルな建築家として、一貫した姿勢を崩さなかった。だがその心労の程ははかりはかり知れない。

〈建築〉が暗殺されたのだ。
あらためて、私は憤っている。

磯崎 新
..2016/04/07(木) 03:01  No.3660




今週の展覧会  ..t      返信
 
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サイモン・フジワラ ホワイトデー

・ホワイトギフト、無題(梅の木)、コイン、扇子
貨幣の、共同体内での信用としての働き、共同体のあり方を示す役割(通貨、税、軍票、、)は、その機能が変われば共同体を支えるシステムも変わるし、その逆も起こりうる。

・乳糖不耐症
作品と画家の出自や画家による言説は切り離されるものかどうか。万寿台創作社のように、画家の個性を消し去って、高度に政治的なマスプロダクションとして、単にテクニックのみの絵画として(芸術的価値を失って)あるものが、それがさらにサイモンフジワラというアーティストの個展に組み込まれて作品として成立する場合、芸術的価値を失っているということそのものが、芸術的価値を持っているということ。

・不死鳥三部作
たとえナチスと関係がなくとも鷲は社会から抹消される。モナリザのひげ。

・驚くべき獣たち
毛皮は、現代においてはより高機能で低価格な代替品にとってかわられて、必ずしも必需品ではない、にも関わらず、それが本物であるということによるステータスと動物虐待のステレオタイプなシンボルとして二重に消費される。

・レベッカ
皇帝を頂点とした完全なシステムとそれに否応なく巻き込まれる人民(その代替としての人形)、貧困という社会の不完全なシステムとそれに巻き込まれたレベッカ。更生プログラムという強制的なシステムによって(なぜか)象られた130体のレベッカ。それが誰でもよかったレベッカ。ほとんど無意味なレベッカの石膏をひたすら作らされる中国の工房。おそらくその意図は彼らには理解されていまい。

・ハロー
健康体だが慈善団体に管理されて薬を抜かれることでゴミ集積場に戻れたことを幸せと感じるメキシコ人女性と、体には障害があるが成功して社会から自由になったことを幸せと感じるドイツ人男性。前者の、治安が悪く貧しい場所についてへばりついたイメージ、後者の、身障者の社会的に弱く不自由で有るはずだというイメージ、のどちらも当てはまらない。


..2016/03/14(月) 03:41  No.3659




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  三木清:
『哲学ノート』
「孤独は山にはなく、むしろ町にある」
..2016/03/13(日) 01:13  No.3658





  




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